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オープニングの曲Hirtenchorは@ロザムンデより「牧人の合唱」(F. Schubert作曲)であった。フォーマルな服装であり、第1部の宗教音楽のための導入部のような役割を果たしていた。場面は指揮者とピアニストが入場したところ。座席のほぼ中央から写す。
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(2)第1部 「モーツアルトの日曜日」(W.A.Mozartの宗教音楽)
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写真2 アベ・ベルム・コルプス
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AGraduale(Sancta Maria)
BRegina coeki
CMotetto(Ave Verum Corpus)
写真2はCアベ・ベルム・コルプス。聖母マリアから生まれた体であり、我々の犠牲になって十字架に架けられたイエス・キリストを讃えて歌う。
フラッシュなしで撮影するので、ピントがややぼけている。演奏前にフラッシュは演奏の妨げになるので、お控えくださいというアナウンスがあった。譜面台が素晴らしい。隣に座った高橋氏が「(このホールには譜面台を)オーケストラ用に常備しているからね。」と解説してくれた。高橋氏は僕が川鉄本部合唱団で指揮をしていたときに、バスのパートリーダーをしており、女性のパート練習をしてもらったり、男声合唱の指揮をしていただいたりした先輩である。神戸大学の男声合唱団でも活躍された由。今年の2月29日、浦安市民合唱団によるモーツアルトの「レクイエム」ではステージ最後列で長身の姿を拝見した。
指揮者は武蔵野音楽大学声楽科を卒業した人で、ウイーン国立音楽大学に留学したりした経歴の持ち主。ピアニストは東京音楽大学卒業で、昨年から団員に一員となった。
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(3)第2部 「風の不思議」(風にちなんだ合唱曲集)
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写真3 混声合唱組曲「風のいざない」より
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D混声合唱組曲「風のいざない」より2曲(蓮月マリ作詞、大中 恩作曲)
E混声合唱組曲「風によせて」より1曲(立原道造作詞、尾形敏幸作曲)
F混声合唱組曲「風の子守唄」より2曲(別役 実作詞、池辺晋一郎作曲)
写真3はDの中の「三月」の場面。白方明治君がHPに投稿したように、日本は風にも四季が感じられる「風土」である。その風を多くの詩人が捕らえ、それを作曲家が歌にして表現する。風の多くの表情を表すには「組曲」が相応しい。多くの場合、組曲は4曲からなり、春夏秋冬の風の表情を歌っている。
第1部とはがらっと変わったすがすがしい風のいでたち。会場の聴衆の目を奪った見事な演出。誰がこんな演出を考えるんだろう。英国の合唱団のようでもある。声もがらっと変わった。ソプラノのかさかさした声がまともな声になってきた。普段の生活からやっと切り離され、音楽三昧の身体にようやくなってきたことを証明する。ピアノ伴奏もそうである。ぎこちない弾き方が安心して聞ける音になってきた。全体の声の量感もそうである。第1部では声に隙間が多かったのだが、ハーモニーがあっているのと、日本語の母音が多いのとで、充実した音質になって聞こえてき始めた。そして、日本人作曲家の特質である「哀感」が漂う。
(4)休憩
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写真4 小ホールのドンチョウ(緞帳)
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会場にいたときには気づかなかったが、この緞帳(ステージ前面の分厚いカーテン)は浦安の沖合いから浦安市を眺めた風景を描いているように思われる。遠方に市街が見えている。夕焼け時である。手前の漁師は棹を操り、家路を急いでいる。屋形船と船着場がみえる。海の波を6角形のタイルで表現しているので、この写真を見るまで気が付かなかった。見えていながら分からなかった。6角形の集合体は僕には鉄の断面の結晶組織のようにも見える。
緞帳が下りてここで15分の休憩である。プログラムに「休憩」の文字がなかったので、最初から最後まで通して演奏するのかなと思ったが、高橋氏が「(書かれてはいないが)どこかで休憩はあるでしょう。」と言ったとおりになった。
ついでに述べると、「アンコール」は「カーテンコール」とも言う。一旦閉めたカーテンを再度引き上げて演奏することを言う。先述の浦安市民合唱団による「モーツアルトのレクイエム」の際にはカーテンコールがなかった。カーテンが下りないからカーテンコールができないのかなと思った。だが、それは違うらしい。レクイエムとかミサのような宗教曲ではアンコールという形式が相応しくないからだそうである。聴衆が熱狂して「もう一曲!」と叫ぶ雰囲気ではない、という考え方だそうだ。
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(つづく)
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