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  第6回「文化フォーラムやまなみ37」故大久保好男氏(13期)『僕の友病記』(その1)

故大久保好男氏(13期)のフォーラム講演『僕の友病記』
文化フォーラムやまなみ37(第6回)
平成20年4月
文化フォーラムやまなみ37幹事一同

 初回<まえがき>

 これは愛媛県立松山南高等学校昭和37年卒業同期の関東在住者で作っている「文化フォーラムやまなみ37」第6回目の講演会(平成18年5月18日)で、大久保好男氏「僕の友病記---癌君ありがとう!」と題して行った講演をMDにて収録したものです。氏としては第1回の「中内ダイエー」の講演に続いて行われたものであり、自分の死を予見した上での特別講演でした。当日配布された2頁の講演概要には「過去を悔やむのではなく、これからどう楽しむか。」、「これは僕への試練ではなく、僕のライフスタイル」、という二つの副題が付けられています。

 講演会場は氏が紹介した星陵会館(日比谷高校の同窓会館で永田町にある)で、12:00〜13:00の昼食会に引き続いて、約2時間の講演がなされました。出席者は会員19名、友人2名、合計21名でした。結果的に最後になった集合写真を撮影しました。当日午前中に行われた虎ノ門病院副院長熊田医師の診断結果が良かったためか、講演では大変元気な様子で、声に張りがありました。後日録音MDをカセットテープに移し、それを氏にお渡ししましたところ、「2ヶ月前はこんなに元気だったのかなあ。」とお礼のメールをしてこられました。それからまもなく急逝(8月8日)されたのですが、氏の講演を後世に留めるべく、同期の山口登同窓会会長を経由して専門業者に依頼し、録音を原稿に起こしてもらいましたので、それを編集して連載披露いたします。

 氏はまた、この講演の後に、同期有志の協力を得て、病状を知らせるためのブログを立ち上げ、「膵臓癌との共生」と命名しました。そして病気の詳細な経過を辿って、全国の同じ境遇の人々に役立つことを願いましたが、最初の二つの記事を入力して、ほんの一端を述べたときに力尽きました。

 公表については生前の御本人や奥様およびお兄様である直行様(11期)の同意を得ておりますが、改めて同窓会のホームページ『すえひろ』に掲載して、氏の思いをできる限り多くの同窓にお伝えしたいと思います。なるべく話し言葉のままでお伝えしますので、連続掲載をお読みいただければ幸いです。




 第2回<講演に先立ってフォーラム鶴岡代表の挨拶と友人紹介>

鶴岡:当フォーラム代表の鶴岡です。それじゃあ、これから始めたいと思います。

 今日はお忙しいのに大勢お集まりいただき、ありがとうございました。今日は全員で21名。このフォーラム第6回目でございます。これからもますます励んでいきたいと思います。皆さま、今後ともよろしく。

 ご案内のとおり大久保さんから特別講演をお願いしたいと思います。きょうは「やまなみ37」以外の方もご案内して来ていただいていますので、篠崎君から簡単に紹介をしてもらいます。

篠崎:大久保氏の友人、篠崎です。緊張すると声が詰まります。(笑)只今、挨拶をされた方が鶴岡道夫さんと言ってこのフォーラムを取り仕切っている取締役です。このお二人をご紹介します。お二人さん、立っていただけますか。

 お二人は元々大久保講師の友だちで同じ合唱団、浦安混声合唱団で活躍されておられます。大川さんというこちらの黒い洋服の方が、合唱のほかにお琴もやっておられます。私は大川さんの演奏会の写真を撮りにいったりしておりますが、今回、案内を差し上げたところ、同期以外ではお2人だけ参加していただき、非常に感謝しております。

 赤い服装の宮武さんというのは宮本武蔵の「宮武」と書きますけれども、香川県の高松一高出身です。同窓会で1,000人も集まるというような、大高校の同窓会を持っておられる方です。同じ合唱団で唄っておられまして、昨年12月11日、大久保君と私を含めたこの4人が一緒にモーツアルトのレクイエムを歌った後、聴きに来てくれた同期の数人と新浦安駅の飲み屋で退院祝いをしました、というような間柄です。今日はごゆっくりしていってください。

大川・宮武:どうもありがとうございます。

<一同拍手>

鶴岡:では、きょうは大久保さんに1時間から1時間半ぐらいのお話をしていただきますが、その前に記念撮影をしようということになっております。途中で抜ける方もいらっしゃるようなので、今のうちに集まった皆さん全員の集合写真を撮らせていただきます。

<写真撮影のため数分>    

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 第3回<まえおき>

大久保:では、いいですか。

一同:はい。

大久保:では、始めさせてもらいます。いやいや、もう、こんなに大勢になると思っていなかったもので(笑)。ちょっと緊張しますなあ。

 これ、この講演概要ですが、これを貰っていない人はいないですな。ありますな。それで申しわけないのですが、2枚目の、私は2枚目ではないのですけれども、(笑い)上から2段目の「患部及び周辺の痛み増加。食欲現象」というこの「ゲンショウ」は転換間違いで(笑)、減る、少ない、の減少です。申し訳ございません。

 では、最初に返りまして、「僕の友病記」ということで、1時間半ぐらいしゃべらしてもらいます。私は大体、講演の持ち分が初回の「中内ダイエー」で終わったのだけど、それ以降のいろいろな推移の中で自分のいろいろな体験というか、そこら辺をこれから長い人生で皆さんも同じようなことに遭遇する可能性もあるので、できるだけ私のことをしゃべっておいて、何らかの参考にしていただければと思いましたので、急遽、今日、こういうことでしゃべろうと入れさせてもらった次第でございます。厚かましく1回目と今回と、2回も講演するのですがお許し願いたいと思います。

 「闘病記」でなくて「友病記」ということなのですけれども、闘病というのは何かものすごく大層です。気分的に重たいし。ですから闘病生活というのはあまり好きな言葉でないので、病気を友達にしようということであえて「友病記」とタイトルを付けさせてもらいました。サブとして「癌君ありがとう」ということでございます。

 癌ではいろいろ経験をさせてもらいましたので、本当に「癌君ありがとう」という気持なのです。いろいろな方からいろいろなことを言われますが、講演概要に二つ書いていますように、「過去を悔やむのではなくて、これからどう楽しむか」ということ、あの時ああいうことをしたからこうなったのだとか、あの時にああいうことをしなければこういうことにはならなかったのだとかを、この段階で言ってもしようがないのです。

 だから、それはそれとして起こった事実として認めてこれからどういうふうにして生活しようか、どういう時間を過ごしていくか、ということが大事な訳であって、そういう意味で、これからどう楽しむかに力点を置くべきではないかと思うのです。




 第4回<ライフスタイル>

大久保:私は若いときから酒が非常に好きでして、税務署から中元・歳暮が届いてもいいのではないかというぐらい、それぐらい酒も煙草も多く飲んでいたのです。それがC型肝炎だと分かったのが12年ぐらい前かな。C型肝炎とは何ぞやというのは、もともと知識が若干ありました。通常の慢性肝炎とは少し違うなということです。通常の慢性肝炎ならば定期的にチェックしていて、例えば肝硬変になったらその時にセーブするとか、対処の方法があるのですけれども、C型肝炎はウイルス性肝炎ですので基本的に病気の種類が違うのです。

 だから、C型肝炎と聞いて、これはやばいということでその場で酒とタバコをスパッとやめたのです。それまで累計をすると国にかなり奉仕をしているのです。(笑)

 それと二つ目、「僕への試練ではなくてライフスタイルだ」と講演概要に書きましたけれども、病気になると、やはり、ああしてこうして早く治したいとか、この苦しみをクリアすると元気になるのだという自分への試練と捉えがちだし、事実そうだと思うのです。でも、試練という自分にそういうものを課すのでなくて、これは多分ライフスタイルです。

 どういう生活をしていても、恐らく今の状況になっていると思うのです。これはどうのこうのというよりは、これは自分のライフスタイルだと割り切って、自分でそのものを容認して、その上でこれからの人生をどう過ごしていくかという方が気楽ですし、これからの生活が楽しくなると思うのです。そういう意味で「試練ではなく、ライフスタイルだ」と書いてあります。




 第5回<僕は幸せ者だ>

大久保:最初に「僕は幸運、強運、大変な幸せ者」と書いていますが、本当に自分はそう思うのです。それぞれ皆さん、いろいろパターンがあって十人十色ですけれども、私の場合は本当に幸せです。癌に罹ったお陰でこういうことができたという意味で、いい経験をさせてもらっています。

 癌になる前のことでも子供のときからずっと振り返って見ると、本当にあの時に、もし、ああだったら死んでいるなというのを3回ぐらい経験しているのです。だから、そういう人生の初めから今まで62歳の間に、そういう場面が何回かあったのですけれども、癌になってからとくにそれを感じます。

 一つ目は93年にすえひろ同窓会がありました。皆さん知っていらっしゃると思うのですけれども、あれも私は初めて高校の東京支部同窓会に出たのです。白井宣子さんとは高校卒業以来で初めて会ったのです。そうでしたよね、白井さん。世間話をしている時にC型肝炎という話が出て、「C型肝炎なら、虎ノ門の熊田先生に私掛かっているわよ」ということを言っていただきました。

 そのとき私は別の病院にベッドも予約して、明日から入院するということが決まっていたのです。それがその時の白井さんの一言で、あっ、虎ノ門に変えようと思ったのです。何でそんなに軽はずみに病院を変わるかというのは不思議で自分でも理解できなかったのだけども事実はそうです。今も虎ノ門病院の熊田先生(副院長)という方に掛かっていますけど、この先生が肝臓に関しては日本で3本の指に入るぐらいの大権威者でして、その方にずっとフォローしてもらっているのです。

 それがまず一番のラッキーだと。そこでやはり癌じゃないということで、そうでなければ今の自分はないと言うことなのです。だから、癌になったおかげで今があるということです。そういうラッキーさがある。

 それともう一つはあの地下鉄サリン事件(1995年3月20日朝)です。これも癌になっていたからサリン事件に巻き込まれなかったのです(笑)。本当の話です。

 本来ならあの電車そのものに乗っていたはずなのです。地下鉄千代田線のどこか行き。私は会社がその近くにあったからいつも一番前に乗っていたのです。一番前に乗っていて、ちょうどあそこの、サリンの入っているビニール袋を傘の先でぶつぶつやったところ辺りにいつも座っていたのです。たまたまその日はインターフェロンという注射をする日だったので、虎ノ門病院に行ったのです。だからいつもの時間帯の電車に乗らなかったのです。その何台か後に乗ったのです。それで命拾いです。もしも癌になっていなかったらその電車に乗っています。そういう偶然というか、ラッキーなことがありました。

 もう一つ、3番目は96年7月11日に退職したのですけれども、これも簡単に辞めようということを躊躇も何もせずに、これからどうしよかと考えずに辞めたのです。というのはたまたまですが、かみさんが若いときはそうでもなかったのだけど、年をとってからやはり免許が欲しいということで、40歳ぐらいから美容師の免状を取るために勉強を始めたのです。

 その時私はバリバリの現役でしたから、私も好きなことをやっていましたし、かみさんが亭主の持ち物だという気は毛頭ないから。やはり1個の人間ですから好きなことをどんどんやってください。後押しすることをやりましょうと、彼女がそういう免許を取ることに関してもろ手を上げて賛成したわけです。それで免許を取った。店を持ちたいというから、店も持つことにしました。何分その当時、十数年前は私の給料もかなり良かったものですから。

 ですからそんなに苦労をせずに、では、やってみたらということで、どちらに転んでもどうってことはないと思っていたから、そういう形でやっていったのです。かみさんがそこそこ、美容師としての素質があるなと感じましたので、それで彼女に任した。だから、最悪の場合、わたしが会社を辞めても何とか食っていけるかなというぐらいの見通しが立ったので、簡単に辞められたのです。それ以降は私が病気でしょう。病気はずっと今日も続いています。そういう意味でも良かったのではないかと思います。




 第6回<肝臓癌と膵臓癌の早期発見>

大久保:それで2001年の夏、2回目の開腹手術と書いていますけれども、2回目の時にエコー検査するのですけれども、よく分からなかった。それまでの病院のお医者さんが診ても癌なのか、そうでないのかという判断ができなかった。それを虎ノ門病院の熊田先生が診て、「これは癌だ。すぐに手術しよう」とジャッジをしていただきまして開けたのです。開けたらそこに本当の癌があったのです。エコーで見た時はほかの場所だったのです。表面にできている癌はエコーでは写らないらしいのです、中でないと。そのあったのが見えなかったらしくて、たまたまメスを入れたところに別の癌があったのです。

 だから熊田先生が早く手術をしようということは大正解だったということです。それがこの出来事です。2004年の秋、「膵臓癌を発見しました」と。これも「肝臓が少し弱ってきたな。数字的に癌ができそうなタイミングだな。肝臓癌がまたできている」ということでエコー検査やったら、「どうも肝臓癌と違うな」と別のいろいろな検査をしてみたら膵臓癌になっていたということです。

 ですから、膵臓癌はかなり早い段階で発見できたということです。そんなことをいろいろ考えていますと非常に偶然というか、それ以降のことを左右していることも、そういう意味で非常に幸せな人間で、皆に守られているなとつくづく思います。それが大体私の正直な気持ち、俺は恵まれている、助かっていると実感する出来事です。




 第7回<病気の経緯>

大久保:次の2番の経緯ですけれども、ものすごく喉が渇くなあ(とボトルの特別仕様の水を飲む)、とにかく十何年前に現役を引退して以来、こんな形で人前でしゃべることはないですからすごく気も使うし、言いたいことも言えなくなるし(笑)。本来、気が弱いもので。その辺り、お許しください。

 そうそう、冒頭に言おうと思っていたのに忘れていた。今日は私の件で、また時間を取ってしゃべらしていただいているのですけれども、私以上の経験をしている方はこの中にでもいくらでもいるのです。だから、そういう方々は病気に関しての先輩です。そういう方々をさしおいて、私だけがしゃべるのは何となく気が引けるのですけれども。気が弱いから(笑)。

 私の病気のそもそもは大学入試の時からで、慢性肝炎だと言われていたのです。大学入試の時に大学へ健康診断書を出すでしょう。その時に血液検査をやって初めて「肝臓が悪いよ」と言われたのです。これはちょっといかんぞと。

 それで、そのときはまだC型があると分かってなかったのです。A型とB型しか分かっていなくて、それ以外はNonA・NonBと言っていたのです。わたしはNonA・NonBだったのでC型ではない。だから、まあ、いいやとそれ以降もずっと酒を飲んだのです。

白井:肝臓病と言うのは今や国民病になっていますね。

大久保:本当、そのとおり。だから大学入試の時に、「肝臓が悪いよ」と言われた時にもあまり気にしていなかったのです。悪くなってもチェックだけはしておいて、本当に悪くなったら、そこでブレーキを踏むか何らかすればいいや。要するにウイルス性でなければ移らないし、肝臓癌になる確率も非常に低いということだったので、ずっとそのままで来ていたわけです。社会人になってもそうでした。社会人になってからは有給休暇を使って骨休みもかねて入院したこともあります。肝臓で2回ぐらい入院したかな。でも、やはりC型肝炎というのは分からない。分かったのは90年ぐらいからではないか。80年後半から90年ぐらいにAでもない、Bでもないという人にC型があるというのが分かったのです。今はEとかDとかもあるらしいですけれども。それで初めてC型というのが分かって、私はNonA・NonB、当たり前ですわな、C型だから。 「お前はC型だ」と言われました。それでやばいと感じて酒・煙草を止めたわけです。それで先ほどの話があったのですが、白井さんの紹介で虎ノ門病院分院に90年春に入院した。これが本格的な肝臓癌治療のスタートです。




 第8回<インターフェロン投与>

大久保:ここでご存じだと思いますけれども、インターフェロンというやつの投与を始めたわけです。インターフェロンは効く人と効かない人がいて、肝臓病患者の4分の1ぐらいしか効かないのです。4分の3は効かないのです。というのはC型にもいろいろな形があってC型のあるタイプしか効かないのです。だから、そこら辺もやる前から熊田先生はご存じだったので、「たぶん、大久保さん、あんたには効かないよ」と言われたのですけれども、「いいからやってくれ」と言ってやってもらったのです。まず効かなかったですけれども。

 インターフェロンというのは人によっても、これは個人差がありますけれども、副作用が結構ひどいのです。わたしの場合は精神的に欝的な感じになったかなという感じですけれども、そこでとても面白い話があるのです。要するにそうやって副作用が出るということは知識として患者も知っているし、病院側も知っているし、看護婦も知っているということで、インターフェロンを打つことそのものは副作用さえクリアできればどうということはないのです。

 ところが人によって出方が違うから、どういう副作用が出るか出てみないと分からないわけです。だから、インターフェロンを初めて打つ場合には本来は入院する必要はないのですけれども入院するのです。私もご多分に漏れず入院しまして、あるとき、本を読んでいたのです。景山民夫の『遠い海から来たCOO(くー)』だったか、あれを自分で買ったりしないから誰かが差し入れしてくれたのです。それを読んでいたのです。

 そうしたらすごく感動しましてベッドの上で本を読みながら涙が出てきました。ちょうどそこへ、新入り看護婦さんが来まして、ハッとわたしの顔を見まして、わたしは涙を出していますでしょう。びっくりしまして、すっ飛んで帰って医者を連れてきたのです(笑)。こちらもびっくりしてどうしたのかと思って。どうも副作用で精神的に不安定になって、泣いているのでないかとその看護婦さんが早合点をしたのです。それで医者を連れてきたというわけです。

 私はえっという感じで事なきを得たのですけれども、これは分院でそんなこともありました。案の定、やはり効かなかったとみえて、しばらく期間が空いたのですけれども2年ほどあって、96年、その時に癌が見つかったわけです。




 第9回<肝臓癌の発見>

大久保:手術したのが96年6月。このもう少し前からかな、この段階でダイエーが今日にあるようなここまでは想像してなかったですけど、会社の内部にいると、これに近いような現象が早晩出てくるだろうなと大体分かったので、早く辞めておくほうがいいなと思って辞める手続きはこの時にしていたのです。

 他の会社に再就職がほぼ決まりかけていたのですけれども、96年夏に癌が見つかったので、他の会社だったら迷惑がかかるし、さっき言ったかみさんが飯食うぐらいなら何とかなりそうな環境だったので、まあ、いいや、辞めようかと96年に辞めたのです。

 そのときに第1回目の手術をしております。それからしばらく空いて2001年夏に2回目の手術をしました。これがさっき言いましたように開いてみたら別の癌が見つかったということです。それが2回目で、3回目はその翌々年に見つかりました。癌に関する医療技術はすごく進歩しまして、とくに肝臓癌に関しては日進月歩という感じです。本来ならば腹を切って切除しなければいけないのですけれども、この段階で腹を切らなくて穴を開けて、そこにラジオ波という特殊な電磁波を癌細胞そのものに照射するわけです。癌細胞を焼き殺すわけです。そういうやり方が普及しまして3回目は2003年夏にその処置でやったわけです。

郷田:具体的にはどうするのですか?

大久保:患部に外から針を刺して。あれ、モニターを見ながらずっと血管のところに針を当てて、癌細胞を見つけてそこに刺していく。

新山:細胞を全部焼いてしまうのですか?

大久保:うん。癌細胞を焼いてしまうというのです。それで今までは肝臓癌の話です。肝臓癌はいろいろなタイプがありますけれども、私の場合は癌というものは吹き出物がポコっとできて、それを取ってしまえばお終いという、癌というのはそれぐらいの感覚だったのです。だから3回目まではそれでよかったのです。




 第10回<膵臓癌との診断はショック>

大久保:ところが04年秋、そのときに肝臓だろうと調べたのが肝臓でなくて膵臓だった。これはショックだったですねえ。(ここで特製の水を飲む)肝臓の癌がどこにあるかを調べるうちに肝臓でなくて膵臓に癌があったのが分かったということ。

 肝臓でも手術したわけですから膵臓でも手術やればいいのですけれども。私がホワイトボードに描いたこの絵は分かりますか。膵臓はここでして。私の絵の成績は小学校の時から一番悪い点です。(笑い)

 実は昨日、本屋に入って医学書を調べた。虎ノ門の先生にも言ったのだけど、例えば、私は目も網膜剥離で悪かったのですが、その病院には目の模型があるのです。こちらに瞳があって、眼球をポコッと外したら中身が見えるのです。目はそういうのがあるのです。「何で内臓の模型が無いんや」と言ったのです(笑)。内臓は無いのです。これは見れば簡単ですが、ところがこれは平面図だからこうですけれども、こう重なっているからなかなか難しいみたいです。

 膵臓は赤いところ、これは少し大き過ぎますけれども、これが胃です。ここら辺に肝臓があって、これが膵臓です。実際にはこれが被さっているみたいです。これが膵臓の尻尾。これが膵臓の頭、この膵頭はちょっと琵琶湖みたいな形をしているのです。これが十二指腸、ここ。これは小腸になっているのですね。これは食道に行っているのです。これが胆管というやつです。それで何を言おうとしたのか。(笑)

 えーと、そうでした、私は膵臓癌なのです。ここら辺、膵臓部は場所的に手術が非常に難しいらしくて、あと、神経とか、リンパ腺とか全部ここらに集中しているらしいです。それに肝臓がこう被さっているでしょう。膵臓癌の手術というのは平均的に8時間ぐらい掛かるらしいのです。8時間掛かるとなると、その間、肝臓はどっかへ行ってないといけないでしょう。それで私の場合、肝臓が正常でないから肝不全を起こすということです。それとここがもともと技術的に難しい場所だということがあったので外科の先生とか、いろいろな先生と専門家が相談していただいて、結局リスクが高いから手術はやめようと。膵臓癌は癌と分かってから亡くなるまで半年から1年で、ものすごく短いのです。

 青江三奈だったか、分かってから死ぬまでが丸1年です。だから、先生方も手術して成功すればいいです。でも、成功しても例えば1年とか何とかというのだったら、リスクは結構あります。成功しなかったらパーでしょう。それよりもそのまま置いておいて1年半でも2年でも延命のことをやったほうが本人にとってもいいのではないかということで、私もそのほうがいいと思ったので手術はやめにしたのです。




 第11回<膵臓癌の治療>

西村:さっき出たラジオ波で焼ききるのはできないのですか?

新山:癌には針を刺して温熱療法のような治療法があるそうですね。

大久保:うん、肝臓は結構、いろいろな方法が開発されているのだけど膵臓は全然そこら辺の進歩がない。私の親父は私が学生のときに同じ膵臓癌になって死んだのですけれども、そのときの医者の処置とおやじの経緯を見ていると私と一緒です。40年ぐらいたつのですが、その間、肝臓にはあるのだけど膵臓に関しては技術的な進歩は何もないのです。

 ということでまた、上手な絵に帰りますけれども、これが胆管と言って、これが胆嚢です。そしてもう1個、膵臓があるでしょう。これは図がおかしいですけど、膵臓から膵管が出ているのです。胆嚢から出ているのが胆管でしょう。膵管と胆管が合流して胃に上がってここに流れ込んでいるのです

 だから胆汁のあの茶色の色とか、糖尿のインシュリンとか、そういうのが一緒にここに流れてきてうまく刺さっているわけですけれども、わたしの場合はこれが癌で腫れてきたものだから胆管が圧迫されて詰まったのです。胆汁が胃へ流れないから、胆汁が体内に回ります。それで黄疸が出るらしいのです。黄疸というのは出たらまずいと。

 ということでこれが詰まっているものだから、復活できないからバイパスを作って胆汁の流れを確保しようということで、ステントという金属性のものをこの中に突っ込んだのです。それで今はうまく流れているわけです。だから黄疸も出ないし、いろいろな数値も正常な範囲内に治まっているし。ステントは網状の筒なのです。閉まっているときは網が縮まっているからこうなるけど、引っ張るとわっとこうなる蛇腹みたいになっているやつ、あるでしょう。

 あれを細くなっているときにそれを入れて、入った段階で中のものを抜くとこれがわっと広がって通路を確保できるのです。それがここに入っているのが分かる。ただ、ここで網状になっているから表から侵入できるのです。がんが今の段階では侵入しつつあって、これが近い将来つぶれる可能性があるのです。

 つぶれたらもう1回その中に通すか、もしくはもう1本バイパス作るか。なんかそういうことになるみたいです。どれぐらい先か分からないですけれども、そういう処置を04年の秋、一昨年の秋にやったのです。




 第12回<主治医の退院指導>

大久保:その時のことは講演概要に少し書いていますけれども、今の主治医が「膵頭を含めて一応、正常に機能し出したので退院しましょう」と言うことで退院する日に私に言った言葉が退院後の生活指導だったのですけれども、「3カ月以上先の契約はしないほうがいい」と初めて言われました。これには驚きましたねえ。「ふんふんふん」と聞いていると突然、そんなことをポッと言うので、えっという感じで。別にこれは余命3カ月という意味でないのですけれども、その時私はそう取ったのですな。

 これはともかく3カ月先ぐらいまでだったら、今の状況はこうだからこれぐらいのタイムだったら何とか予想が付くからいいよと。例えばその先になると少し長すぎるので、来月になると来月から3カ月。再来月だと再来月から3カ月という感じでずっと順繰りで3カ月先ぐらいまでだったら、今の病状からするとどうかという判断、想像ができるという意味だったのです。ところが私は余命3カ月というふうにとったのです。

 そう言われたら皆さんそう思わない?

 つい、この前、先生は「あのときに言ったのはちょっと言い方がまずかったけどこういう意味だよ」と訂正してくれた。

 でも、そのときに私、瞬間的にえっと思って、何かあったらすぐ、(水を飲む)涙ポロポロ出て涙もろいのです。3カ月ということであまりにもびっくりして、その時も涙が出たのです。ただ、それから30分、1時間ぐらい後には頭を切り替えまして、3カ月と言えば90日でしょう。その間、結構、時間があるから体が動けば今までできなかったことが、いろいろなことができるのですね。

 そう思って、よし、3カ月あると。これから退院してから遊ぼうということでね。手帳をそれ以降のあれを見てみると結構あちこちスケジュールが一杯で空いている日はないのです。かみさんに言わせると「また、出ていくの」という感じで、「少しは家にじっとしときない」というぐらい、ほとんど毎日出て行っていました。

 今でもそうです。出ていく日のほうが多いです。とにかく風呂好きなものだから風呂ばかり行くとか、温泉旅行だとか、コンサートとか、そんなこと本当によく行っています。自分なりに有効に時間を消化しているつもりです。このときはそういうことがありました。このときは結局、肝臓だけの話だとさっき言いましたように、自分の解釈としてはできものを取るレベルの話で良かったのです。



 第13回<体質改善>

大久保:ところがここにきて膵臓癌云々となると、これはちょっと、ということで初めて、膵臓癌についてインターネットでいろいろ調べました。また、色々な人にいろいろなことを教えてもらいました。それを試してみようと思いました。この水もその時から飲みだしたのです。これね(特製の水をいれたボトルを見せる)、この水は普通の水でなくて、ある種の機械を通したアルカリ還元水といってアルカリ性なのです。人間の身体は元々弱酸性ですよね。そうなると免疫力が落ちてきて、外敵に対して弱く、癌になったりします。だから体質を弱アルカリ性に保っておくことが望ましい。免疫力がついて。だからこのアルカリ性の水を飲んでいる。この水がどのくらい効いているのか分からないけど、こうやって皆さんの前でしゃべっておれるのである程度効果があるのだなと思っている。食物のよしあし、湯治、生活スタイル、と身体が動ける間は極力動くようにしている。かみさんはじっとしておけというんですが、じっとしていると却って良くないのではないかと思い、動けるうちは動くようにしている。そういうことが04年以降ありました。

 05年の秋、去年の11月だったかな、十二指腸が潰れた。食べたものを戻すようになった。ここは固くてステントを入れられないらしい。そこでそこをそのまま放置して、好きなようにせいと、食べたものを通さないといけないから、胃から小腸へ直接つなげる手術をした。ここでまた脅かされましてねえ。最悪の場合、ここが使えないと固形物が食べられなくなるかもしれないといわれた。水とかミルクだけで、ジュースも駄目らしい。そうなったら生きている甲斐が無いでしょう。大分脅かされました。まあ、運良く手術は成功した。固形物を食べられるようになった。でも悪いところを切除していないので、膵臓癌の細胞は生きている。今のところ成長はしていないようなので、お付き合い願えるかなという状況です。だからまた入院しないといけなくなるかもしれません。

 以上が虎ノ門の処置です。




 第14回<最近の状況>

大久保:余談になりますが、去年05年の暮に、モーツアルトのレクイエムをこの4人で唄いました。12月11日だったかな。そのステージに立てるように手術のスケジュールを変更してもらった。先生もスケジュールが詰まっているところを、1週間早めてもらった。退院しました、その翌日にステージです、とはいかないから。これは先生が少しでも中味の濃い生活をしてもらいたいということで、患者の話をよく聞いてくれたものだと感謝している。わがままというか、そういう生活をしています。

 最近、血糖値が上がってきている。私の場合、急にぽっと上がった。500強に。だが糖尿病だと血糖値はこんなに急に上がらないので、糖尿病ではないだろうと。やっぱり膵臓だろうと。だから糖尿病については何も処置していない。インシュリンが出るのは膵臓の尻尾、膵尾で作られるようですから、膵尾が悪くなったのだろうということです。それと並行して食欲が落ちてきた。5月10日だったかな、先週、エコー検査したのですが、肝臓に新たな影ができていることがわかった。今までの癌はすべて原発性で、転移しなかったのだが、今回見つかった癌は3cmにもなっていた。ひょっとするとこの癌は転移したものかもしれない。癌というのは転移すると駄目らしい。急激に大きくなったのも転移のためかもしれない。3月のエコー検査時には影が写っていなかったのだから。もし、転移だったらそれこそもう後半年ですよ、とまた言われました。これは大久保さんがということではなく、統計的にはそういうことですよ、ということです。

 実は今日、午前中に肝臓癌の権威熊田先生に診てもらいました。前々から定期的にチェックしてもらっているので、今日がその予定日だったのです。熊田先生は、これは膵臓からの転移ではないのではないか、原発性だろうと言ってくれました。それは何かを注入すると、すぐに分かるらしいのです。色が変わると転移といったのかな、そうでないと原発性なんだそうです。だから早くその癌を退治した方が良い。そのために6月12日(月)から2週間入院して、さっき言ったラジオ波で肝臓の癌細胞を焼き切ることを今日の午前中に決めて、ここにやってきたのです。(水を飲む)4回目の肝臓癌が原発性の癌であれば対処がしやすいらしいのです。
その2につづく



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