末広帖 401-444


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● 444 バルタザール・グラシアン著「賢人の知恵」について
11 Feb (Wed) 12:22 
From:岡田 次昭 南高 11期  

今回は、バルタザール・グラシアンの「賢人の知恵」について述べることにします。彼は、17世紀において、スペインで活躍しました。
ニーチェ・ショーペンハウエル・森鴎外が彼の著作について、絶賛しております。全部で240節あります。その内、38節を皆さんに紹介します。
人生の指針について大いに参考となる言葉が溢れております。
この書物の「はじめに」のところでディスカヴァー編集部は次のように述べています。
【この書物は、17世紀のスペインで活躍したバルタザール・グラシアンの著者です。彼は、著述家であると同時にイエズス会の修道士で、彼の残した著作は世 界中で翻訳され、多くの人に愛読されております。神学者アルトゥール・ショーペンハウエルはグラシアンの著作のドイツ語訳を手がけ、また日本では森鴎外が 部分的な日本語訳を発表しております。哲学者フリードリッヒ・ニーチェは「ヨーロッパはいまだかって、これほど精妙にして人生の道徳律を生んだことはな かった」と記して、またショーペンハウエルも「人生のよき手引書である」という言葉を残しています。インターネットやテレビによる情報が氾濫し、世の中が 恐ろしいほどの速さで移り変わっている現代において、自分を見失わず成功を手にするにはどうすればいいのか? そのヒントがたっぷり詰まっているのが本書 です。ぜひあなたの傍らに置いて、ご活用いただければ幸いです。】
バルタザール・グラシアンは、1601年に生まれ、1658年に亡くなっております。わずか57歳の人生でした。この短い間に素晴らしい著作を多く残したわけですから、本当に素晴らしい人物であることが分かります。
なお、この書物は2006年12月20日に第一刷が発行されており、2008年12月には23刷まで発行されています。かなりの方が愛読している証拠です。
発行所  Discover21;Inc 翻訳者は、齋藤慎子氏です。彼女は、同志社大学文学部英文学科卒。翻訳家として活躍中。現在はスペイン在住です。
定価は、税込みで 1,785円です。

350年以上も経過しているにもかかわらず、現代においても十分有益なことが書かれております。

恥ずかしながら、私はテレビCMでお馴染みの「水のクラシアン」は知っておりましたが、この書物の著者「グラシアン」は知りませんでした。この書物に出会ったのを機会に他の書物も読んで彼の素晴らしさを探求する予定です。



(原文のまま)

01 好ましい人とつきあう
何かしら得るところや、学べるところのある人とつきあおう。人づきあいを、相手から学び、お互いの知識や意見を交換する場にしていこう。持ちつ持たれつの 関係であれば、与えることで感謝され、また自分も新しい情報を得て視野を広げることができる。もののわかった人は高潔な人とつきあい、見栄だけで行動する ような人を避ける。有能な人は、偉大さを発揮する人、学術・学問に足跡を残すような人とつきあいたいと思うもの。大事なのは知識より知人なのだ。

02 人を見きわめる
自分の人生にかかわる人をしっかりと見きわめよう。相手の考えを、用心深く探るのだ。人生で大切なことは、植物や岩の構造を証明することより、人の中身を理解することだ。人を、その話す内容で判断しよう。また言葉だけでなく、行動を見ればもっとその人の真価がわかる。

03 明るい話題を探す
「いつも明るい知らせを持ってきてくれる人」と認められたということは、つまり、良いものを探し出して、みんなに知らせる能力が評価されたと言うことだ。 悪いことをあざ笑うのではなく、良いことをほめる習慣がある人は、引く手あまたとなってみんながその意見をぜひ聞きたいと思うだろう。反対に、悪い知らせ ばかり持ってきて、なかでも一番悪いことを本人のいないところで言うような人は、しばらくはうまくいったとしても、そのうち周囲から相手にされなくなる。 話し相手によってその陰口を変えていることがわかるからだ。第三者の悪口を言うのは、やはり下手な駆け引きなのである。

04 悪口を言いふらさない
人をだしにして笑ったり面白がったりしてはいけない。悪口を言う人という評判がたってしまうと、みんなに嫌われるからだ。多勢に無勢で、相手は数を優位 に、いつでもこちらを圧倒することができる。唾棄すべきゴシップ屋が立派な人と一緒にいることがあるが、実際にはただ面白がられているだけなのだ。悪口を たたけば、やがてそれが自分に返ってくるということを忘れないように。因果応報なのだ。

05 嫌われないようにする
わざわざ嫌われるような真似をしないこと。何もした覚えがないのに嫌われてしまうことだってあるのだ。これといった理由もなく、ただ何となくあなたが嫌い だという人はいるもの。反感は好意より力が強い。人の本質には相手を傷つけたいという欲求がある。周りはみな敵、人を傷つけることだけが楽しみという人も いるのだ。一度反感を買ってしまうと拭い去るのは難しい。だから、なるべく相手の良い面に目を向けること。そうすれば自分も正しく評価されるようになる。 そしてなるべく親愛の情を示すことだ。

06 貸しはとっておく
友人に貸しがあるなら、つまらないことで返して貰わないこと。せっかくの宝をドブに捨てるようなものだ。この頼みの綱は緊急時のためにとっておこう。運命 の嵐にもまれたとき、そのお陰で助かるだろう。価値あることをささいなことに費やしていては、後に何も残らない。支えてくれる人がいることは大変重要なこ とで、好意にはたいてい大きな犠牲が伴う。重要な局面で恩返しをしてもらうことは、一生に関わること。勢力ある人が見方についてくれていることは、幸運を 持っているよりもずっと頼もしいことなのだ。

07 言葉を飼いならす
言葉は飼いならされていない野獣と同じ。一度解き放つと戻ってこない。賢人は言葉づかいをうまく制御している。言葉は心の窓であり、そこから真理状態が相手に見えるからだ。

08 利口さを隠す
賢く器用に物事を考えることは大切だが、計算していることを人に悟られてはいけない。目先のきくやり手であることは、強みであるが、そういう小技を駆使していることが知られると、敬遠され軽蔑されるかもしれないからだ。
人に疑われないよう、そつのなさは隠しておこう。これらの心づもりは秘密のままで、どう進めるか十分に検討しよう。そして、確信を持って計画を実行すればいい。

09 平静さを保つ
自重する心を持とう。どんなときでも激情に流されてはいけない。感情が強く揺さぶられるようなときでもバランスを保てることが、本当に偉大で気高い人の証 だ。激しすぎる感情は頭も心も煩わせ、弱らせてしまう。感情にまかせてものを言ってしまうと、評判を落として取り返しのつかないことになる。反対に、自制 心は人を強くしてくれる。どんなことがあっても、たとえ最悪の災難やとんでもない事態の展開があっても、平静さを失ってはならないのだ。

10 愛しすぎず、憎みすぎない
いつまでも愛さないこと、そしていつまでも憎まないこと。今日の友が明日は一番の敵になるかもしれない。このことを理解しておけば心の準備もできるはず だ。たとえ友が裏切り者になったとしても、攻撃しないこと。そして同時に、敵と和解する望みも持ち続けよう。昨日は報復に燃えていたのが今日は苦悩とな り、自分のした仕返しを悔やむことになるかもしれないからだ。

11 力よりも知恵を使う
力で目的を達成できなければ、頭を使おう。譲歩すべきときがわかれば、戦いは半分勝ったも同じ。勇気の道を行くのをあきらめても、知恵の道が残されてい る。力より才能を使ったほうがより多くを手にできるもの。勇者より賢人のほうがうまくいくことが多い。最終的に目的を達成できないときは、そもそも望んで いなかったふりをすればいいのだ。負け惜しみも知恵のうち。

12 恐れずに自分の意見を言う
斬新な意見を述べ、恐れずに反論しよう。いつも同意ばかりしている人は尊敬されず、逆に自分の意見を大事にし、それを口にする人が尊敬される。また、ごますりを蔑み、だまされないこと。必ずその見返りがあるのだから。

13 わかりやすく、はっきりと話す
人と話すときは感じよく、わかりやすく話すようにしよう。伝えたいことを心の中に抱くのは簡単でも、言葉にして生み出すのに苦労する人がいる。知の産物、 つまり考えや意見には、生みの苦しみがともなって当然。大きな図体の割にはほんの少ししか中身がないような人もいれば、思った以上に多くのものをとうとう と話す人もいる。はっきりと話す人は評価され、敬われる。きちんと理解されるからだ。平凡に見られまいとしてわかりにくい言葉で話す人は理解されにくい。 話し手自身がちゃんと理解していないことを、聞き手が理解できるはずがない。


14 穏やかに話す
穏やかな言葉には心の優しさがこもっているが、厳しい言葉は心を突き刺す。相手をはげます言葉で穏やかに話せば、敵でさえ態度を軟化させることがある。こ の大切なことがわかっている人は、まさにその雰囲気を売ることができる。人に好かれる唯一の方法は、感じよく話すことなのだ。

15 簡潔に話す
簡潔に話せば、聞き手が喜ぶだけでなく、もっといいことがある。手短に表現することで、良いことはさらに良く、悪いことはさほど悪くないように相手に伝わ るのだ。無駄口をくり返していると、本当は何もわかっていないと人から思われるのがオチだ。人をうんざりさせるタイプは仲間にとっても邪魔者なので、気が ついたらのけ者にされているだろう。また、目上の人にとってけむたい存在とならないように気をつけること。目上の人をいらいらさせることは、すべての人を いらいらさせるくらい迷惑なことなのだ。彼らの貴重な時間を奪ってはいけない。言うべきことがあれば、それらはすべて簡潔に言うべきものなのである。

16 核心に迫る
誰もが物事の中心にいたいと思っている。にもかかわらず、無益に周辺をうろつくばかりで、うまくいかない人は多い。口先だけで、核心を避けていては時間の無駄だ。重要な点にまっすぐに向かい、注意を集中させよう。

17 聞き手を置いてきぼりにしない
聞き手が不快感を示しているのに、話し手自身が自己満足していて何になるだろう。自分の最良の聞き手が自分というのは、誠にばかばかしいことだ。話し手と 聞き手を同時にこなそうとしてはいけない。また、話すときにやたらと「前にも言ったように」とか「今まさに言おうとしていたのは」などを連発するのは聞き 手をうんざりさせるだけだ。話すたびにいちいち証人や賛同をもとめないこと。聞き手をいらいらさせることになる。

18 勇気を持つ
知識はすべてを可能にする。知識がなければ、この世は闇だ。ただし、勇気を伴わない知識は無力だ。逆に勇気さえあれば、知識は不朽のものとなるだろう。

19 感情を大切にする
頭と心は、どちらも知性の根幹を成す。どちらを否定しても幸福は半減する。理性と観念の世界だけで生きていこうとするのは愚かなことだ。感情もかけがえのない人生の要素であり、それなしで社会的地位を得たり、仕事や人づきあいをこなすことはあり得ない。

20 よく考える
何かをいつも考えるくせをつけよう。無分別な人が手に負えないのは、物事をあらゆる側面から検討しないために全体像が理解できないからだ。理性的に考える ことで、状況は正しく判断できる。ただし、さほど重要でない細部にこだわりすぎると、判断や行動を誤ることになる。深く隠れていた真実が表面化するのを 待ってさえいれば、やがてすべてが理解できるようになることも多い。

21 相手の立場で考える
人はそれぞれ自分が正しいと思うことについて基づいた立場を取り、自分の信念をさまざまな方法で正当化する。ある問題で2人の意見が対立したとき、それぞ れが正しいのは自分だと信じているが、道理に二面性はありえない。相手の見解を批判するときは用心して、反論は控えめにしよう。相手の立場に立ってみて、 相手の意見を理解するよう努めるのだ。相手の立場から問題を検討してみれば、相手を完全に避難することも、こちらの根拠を全面的に擁護することも難しいこ とがわかるのである。相手の立場でしばらく考えよう。

22 本質を見抜く
よく観察して正しい判断を下せる鋭い能力があれば、常に人の上に立てるはずだ。また人や物に振り回されず、その両方をコントロールすることもできる。相手 の核心をきちんと見据え、その本質を見抜き、完全に理解できるよう自分を磨こう。よく見ることで、人の心の奥深くに隠されたものもすべてわかるようにな る。透徹した洞察力があれば、人が隠しておこうとすることもすべて見通すことができるのだ。

23 判断力を磨く
人生には選択を迫られることがよくある。そういうときは知識や知性だけでは不十分。正しい判断力を見きわめる力が絶対に必要だ。ただ選ぶことと、より正し い選択をすることは別の能力だ。経験豊富で鋭く分別もあるような人でも、判断を誤ることはままある。知性を鍛えるとともに、正しい判断力を養うべく自分を 鍛えよう。ただし、かといつて、あなたが受け入れなかったものをあらかた排除してしまうのは行き過ぎである。評価や判断を下しても、それを周囲に強いるの は愚かなことであり、それはもう病癖だ。

24 常に自分の内面をチェックする
自分の気質、能力、判断力、感情を正確に評価しよう。自分を知ることが自己改善の第一歩。容姿は鏡で確かめられるが、心までは映らない。だから慎重に考察 して、自分自身を丹念に調べるのだ。鏡に映ることは忘れても構わないが、欠点を直し短所を改善するには、内面にあるものをいつも忘れずにいること。日々、 調子と達成能力を自問しながら、自分自身と心の資産の棚卸しをしよう。

25 思慮分別だけは欠かさない
思慮分別は理性の府、用心深さのよりどころ。うまく使いこなせば成功を手に入れるのはたやすい。神から賜った天分として崇めるべきものだ。甲冑ひとそろい のごとく、思慮分別は人にとって欠かせないものであり、これを欠く者は人間として未完成である。他のことで過不足があっても、その不足は人の未熟を云々 (ウンヌン)するものではなく、単に人として好ましいかどうかに関わるものだ。すべては思慮分別にかかっている。それはまさにあなたを正しい道へと導いて くれるのだ。

26 何事も十分に検討する
間違いがないか確認するため、決めたこともすべて見直してみるのが慎重な態度だ。自分の判断に不満を感じる場合は、見直し作業にとりかかろう。当初の判断 を軟化、あるいは強化するのだ。再検討しているうちに、自分の価値判断の是非を決めるような新たな情報が出てくるかもしれない。何か頼みごとをされたとき も、よく考えてから判断を下すほうが、結果的にいっそう感謝されるだろう。依頼を断らなければならないという場合でも、痛手を和らげるために先延ばしにし たほうがいい。また、たとえ緊急で判断をしなくてはならない状況に直面しても、十分に時間をかけてから結論を出そう。あらゆる角度からしっかりと検討すれ ば、問題点や不備な点が出てくるかも知れないのだから。

27 理性を失わない
興奮のあまり筋道立てて考えられなくなり、危険な状態に陥ってしまうことがある。ほんの一瞬かっとなっただけで、後悔の日々が続くことになる。感情的に なって犯した過ちを正すのに一生かかるかもしれない。こういうとき、相手がこちらの弱味に気づき、そこを突いて理性を失わせようとするかもしれない。だか ら、そういう事態から身を守るための自己抑制が不可欠だ。軽い気持ちで口にした言葉も、受けとめた人にはとても重くのしかかることがあることを忘れないよ うに。

28 最新の意見に翻弄されない
ロウのようにすぐ感化される人がいる。以前あったことに簡単にとって代わるような最新ニュースに翻弄されてしまうのだ。これでは意見が理不尽な極端に走る だけで、毎日違う人の言うことに、羊のように従うことになる。こういう習性では、何も得られない。新しい情報が入ってくるたびに色も形も異なるのだから。 絶えず変化する状況にためらって、ぐらついてはいけない。意見は簡単に変えないこと。

29 悲しみは水に流す
水に流せるかどうかは要領より運の問題だが、ぜひ身につけたい技だ。本当は記憶に残しておくべきことを水に流すのはとても難しい。意識的に記憶を鍛えよ う。楽しく気持ちが安らぐことだけ思いだし、うれしいことに意識をおくようにするのである。記憶の使い方次第で、この世は天国にも地獄にもなる。水に流す ことが悲しみを癒す唯一の方法という場合もあるのだ。

30 知性を持って生きる
神が人に与えた最大の贈り物、それは、創意工夫する頭脳、深い理解力、そして鋭い洞察力だ。豊かな想像力も強みであるが、理路整然と考える力のほうがはる かに大切である。人間は二十歳で性的欲望にかられ、三十歳で私利に、四十歳で分別に左右されるのだ。しかし、そのなかでも闇を照らす知性があれば、先のこ とが予見できたり、それによっていつも正しい選択ができ、確実に良い結果を得ることも可能となる。正しいことを見分けられることが人生の醍醐味なのだ。

31 明るい性格でいる
快活であることは、度さえ超さなければひとつの強みであり、決して悪いことではない。ちょっとしたユーモアはまさに絶妙の醍醐味。教養ある人は楽しむべき ときを心得ていて好感を持たれる。ただし、みっともない真似や礼儀作法からはずるような粋すぎた真似は決してしないこと。物事が深刻にならないよう、配慮 すべきときを見分け、きわどい場面もちょっとした冗談で方向転換できるような能力を養おう。いつも快活な人はみんなに好かれる。

32 信念を貫く
正義に確固とした信念を置いている人は、激しい反対にも、金切り声で抗議する大衆にも決して屈服しない。理性で自分の立場をしっかり守れるからだ。真の正 義に全身全霊をささげてもいいという人はごく稀だが、そのふりをする人はたくさんいる。政治家は正義を叫ぶかも知れないが、最後には裏切る。何があっても 正直を守りとおそう。本当に正直な人は、誠実さを気まぐれに変えたりしないし、背信行為もありえない。それどころか、真実のあるところならどこへでも向か う。

33 自尊心を守る
自分に忠実であれ。自尊心が傷つくようなことや、自分の価値観や規範に背くようなことをしてはいけない。自分に課す行動規範は、世間一般の社会規範よりも ずっと厳しいものであるべきだ。自分を気づかうことが一番の歯止めになる。自責の念にかられたり自己嫌悪に陥ったりするような行動は慎もう。自己管理を十 分厳しくしていれば、第三者の監視など必要ないはずだ。

34 心の声に耳を傾ける
直感で正しいと思ったら、必ずそれを信じるべきだ。直面するどんな問題に関しても、自分の心に聞いてみる価値がある。直感は人に備わった神からのお告げ。 重要な出来事を予言してくれることもたびたびある。自分の心を信じなかったために破滅した人もいれば、直感をうまくはたらかせて、近いうちに起こり得る問 題を察知して身を守る人もいる。必ず勝てるとい
う直感がないまま敵と戦う人などいるだろうか?

35 臨機応変にふるまう
自分の本質を理解し、その指針に従って生きよう。自分が納得できるような条件をあまり厳しく言わないこと。今日要求した苦い果物を明日食べるはめになるか もしれないのだから。自分の望みどおりに環境を変えることはできない。反対に、環境に合わせて自分を変えるのだ。賢人は、状況に合わせて対応の仕方を変え るのが唯一の慎重な行動だと分かっている。

36 自分を磨く
時がたてば、光輝くものはやがてその輝きを失ってくる。慣れは感覚を鈍らせ、称賛されなくなってくる。精神力・知性・運などすべての面で、ときどき自分を 再生しよう。違う分野で活躍するのもいい。以前の分野ではなつがしがってもらえ、新しい分野ではまた称賛されるかもしれない。
さあ、新しいスタートを切ろう。

37 はかりしれない存在になる
賢人は、自分の能力を相手に測らせるようなことはしない。人から尊敬され続けたければ、自分の知識や才能の範囲を知られてはならない。どれほど素晴らしい 能力でも、その限界を明らかにするのではなく、どこまで深く広がっているかを人の想像にまかせておくのだ。人は正しい情報を与えられるよりも、不確かな情 報を推測するほうにより価値を感じているのだ。

38 努力する
人生の目的は、自分の歩むべき道を見つけて、できるかぎり完璧な人間になろうと努力することにある。

(了)

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● 443 「アンチエイジング」について
08 Feb (Sun) 08:29 
From:岡田 次昭 南高 11期  

「アンチエイジング」について
                     

今回は、今話題のアンチエイジングについて述べることにします。
アンチエイジングとは、「抗老化」「抗加齢」を意味します。
古い英和辞典には、「anti-aging」という単語は掲載されておりません。
最近の英和辞典にようやく掲載されております。
さて、テレビ等の報道によりますと、このアンチエイジングという言葉は女性専用のように見えます。
アンチエイジング・クリーム、アンチエイジング・ダイエットといったたぐいです。例えば、顔の皮膚にヒアルロン酸を注射して、しみを取り、皺を伸ばす場面がテレビで報道されております。このヒアルロン酸は、保湿力を高めます。
赤ちゃんのもちもち肌はこれが多く含まれているからです。
赤ちゃんの時を100%としますと、60歳では30%程度になると言われております。
これが少なくなりますと、保湿力が減少して、しみや皺の原因になります。
しかしながら、アンチエイジングの本来の目的は健康を維持して長生きすることであります。しかも男女共通です。
そこで二子玉川の紀伊国屋に行って、それに関する書物を探したところ、
文藝春秋 季刊冬号「アンチエイジング読本」に出会い、早速購入しました。
皆さんの参考になる文章を末尾に紹介します。
その内の一文「未来を予測する方法は アンチエイジングとライフスタイル」を要約しますと「アンチエイジングをするには、適度な運動とバランスの取れた食 事で9割は達成できる。アンチエイジングの目的は、健康長寿です。ただ長生きしても意味は薄い。その質が問題である。つまり究極は生活の質である。 (Quality of Life)」と書かれております。
それに、私は「これからの年月は、新たに与えられた貴重な人生である。」という言葉に魅せられました。
皆さん!! 自分は健康に自信があると自惚れてはいけません。
油断をすると、病魔に襲われて悲惨な一生を送ることになります。
そうならないためにも、下記の文章を読んで、自分自身を守りましょう。

文藝春秋 「アンチエイジング読本」

「未来を予測する方法は」(アンチエイジングとライフスタイル)

            アンチエイジングネットワーク理事長 塩谷信幸

今の僕にとってアンチエイジングを語ることは、親父、塩谷信男の半生を振り返ることでもある。今年春、106歳マイナス10日でこの世を去った親父は、 84歳で引退するまで現役の内科開業医として、朝は6時に起き、昼過ぎまでに100人ほどの外来患者を診察し、午後は往診に出かけ、帰宅するのは夜中とい う生活を続けてきた。引退後は100歳までゴルファーで、週一のプレーは欠かすことなく、93歳の時に三度目のエイジシュートを達成している。バランスの とれた食事と適度な運動。アンチエイジングの9割はこれに尽きると言われている。その点、親父は玄米菜食を守り、連日、修道僧のごとくゴルフボールを打ち 続け、アンチエイジングの、またゴルファーのロールモデルだったようだ。西洋医学だけでなく、ありとあらゆる民間療法も研究し、最終的に「正心調息法」と いう呼吸法に行き着いた。親父亡き後もそれを信奉する人たちのグループが活動している。
だがここではまず、アンチエイジングとはなにかから話をはじめさせてもらいたい。今まさにアンチエイジングブームである。いわくアンチエイジング・クリー ム、いわくアンチエイジング・ダイエット、さらにはアンチエイジング・メデイカルモードなどなど。何かアンチエイジングという魔法の言葉を被せれば、金の なる木に化けるのではという錯覚を大方が持たれている気味もある。これはアンチエイジングの旗振り役としては、かならずしも喜んでばかりはいられない傾向 である。僕の考えでは、一言で言えば、アンチエイジングとは「健康長寿」を目指すもので、老化に抗うものではなく、平たく言えばいかに老化という「自然現 象」と付き合うかというコツである。まして「不老不死」などという、大それたというか浅はかな世界を目的とするものではない。
だが今アンチエイジングの世界は混迷を極めている。その理由はいくつかあるが、まず、各分野の方々が自分の専門の延長線上に、ばらばらにアンチエイジング を構築してきたことにある。内分泌医はホルモン補充療法こそ抗加齢の主役と説き、我々形成外科医は皮膚の若返りこそ女性の最大関心事と捉え、抗酸化の専門 家は老化の元凶は過酸化物にありと主張する。
混乱の今ひとつの原因はアンチエイジングに名を借りた商業主義にある。ホルモン補充療法ひとつとっても、まずバイオで成長ホルモンが安く大量に生産される ようになった。じやあ何かに利用しよう。そうだ加齢でホルモンは減少する。とりあえず老人に与えてみるとどうも元気が出るようだ。これはしめたということ で企業がセールスマンのような医師を養成し、学会に名を借りた展示即売会を立ち上げる。これかアメリカの抗加齢学会の実態だった。
元来は、抗加齢は何のため? それは健康長寿。そのためにはかくかくしかじかの手段が考えられるが、その効果とデメリットは? と発展すべきが、順序が逆 になってしまったのが、アンチエイジングに対する不信感のもとになったと思う。また健康長寿もただ長生きしても意味は薄い。その質が問題である。つまり究 極は生活の質、今はやりの言葉ではQOLである。(Quality of Life)
アンチエイジングはそのQOLを高める手段に過ぎない。ではそのQOLとは? これが今後の課題であろう。
僕はまず、生き甲斐を挙げたい。では生き甲斐とは? 自分が人から必要とされていると感じることである。極端に言えば、たとえ錯覚でもよい、人の迷惑にな らなければ、そして心の平穏。若い時は好きなことも我慢して、独り立ちの準備のために費やされた。その後の数十年は生活のため、仕事のため、家族のため、 夢中で走り続けた。そして今そのすべてから解放されて、初めて自分の好みのままに行動し、過去を振り返り折り合いをつけることができるようになる貴重な期 間である。将来の心配は何もない、もうその先は死ぬしかないのだから。
ところでQOLを支えるものはまず健康である。病気にならないに越したことはないが、そうはいかず、だれでも一つ二つの持病は抱えているものである。親父 にしても日野原大先生にしても、長寿者には以外に、若い時弱かったか大病をして、以後、健康に留意し自分の健康法を編み出した方が多い。病気やその予防に 対しては老人病学という専門分野があるが、抗加齢はそれ以前の、いわゆる未病という言い方がされている。年相応の体力知力の維持である。車でいえば、車検 と定期整備のようなものだろうか。
車と人を一緒にしては失礼だが、車もメンテナンスをまめにやることで長持ちする。人も、病気になってからあわてて医療費をつぎ込むよりも、それ以前にアン チエイジングという手入れをまめに行うことで、結果的には医療費の節減にもなるのではなかろうか。縦割り行政の役人には難しい発想かもしれぬが、もっと政 治家が長期ビジョンで取り組んでほしい分野である。
アンチエイジングといっても何も難しいことではない。冒頭に述べたように、適度な運動とバランスの取れた食事で9割は達成できる。つまりはライフスタイル の問題である。だがこの当たり前のことを守るのが、凡人には至難の技である。また、食事にしても昔は普通に食べていればよかったが、今の食材は見た目は綺 麗でも栄養素が十分の一といったものもあり、サプリメントの出番となる。
また、現代人、とくに都会では、運動不足になりがちだ。フィトネスなどに行かずとも、意識して日に三十分でも歩くことを心掛ければ、最低限は保証されるだろう。
親父の健康法は徹底していた。全くの玄米菜食。肉や砂糖は毒だという。野菜も味付けはいかんという。元来、体が要求するものは舌が感知するのを、味付けで 舌の鑑別機能をマヒさせてしまう。フランス料理などもってのほか。チョコレートもキャラメルも許されなかった僕の幼少時がいかに悲惨だったか、想像に任せ ます。長じて体に悪い毒が、いかに美味であるか知って以来、一生かかっても償い切れないほど、必死にフランス料理、天麩羅、カツカレーなど食べ続けている のが、人にはアンチエイジングのライフスタイルを説く僕の実像である。「人生楽しくなきゃ長生きの意味がない」というのが本音のところである。
ところでアンチエイジング医療としては通常次の四つの柱があげられる。
ホルモン補充療法、抗酸化療法、免疫能強化そしてキレーション療法を中心としたデトックス(解毒法)である。キレーション療法とは、体内から有毒なミネラルや老廃物を取り除く療法です。(Chelation therapy)
以上はアンチエイジングの中のいわゆる全身療法であるが、女性にとって最大関心事は皮膚の若返りである。皮膚も全身の臓器の一つだから、全身のアンチエイ ジングで皮膚も改善されるはずだが、体表なので局所の治療が可能であり、皮膚科、形成外科などで別個に扱われ、しわ、たるみにはレーザー、ヒアルロン酸注 入、ボトックス注射などが行われてきた。
この全身治療と皮膚美容の両者の連携も今後の課題であるが、それを含めこの春、僕は「見た目のアンチエイジング研究会」というのを起ち上げた。皮膚だけで はなく、容貌、体型といった老化による見た目の変化を形態学的に追究し、それぞれに適した治療方法を選択し、また組み合わせる学問分野の確立を目指したの である。これは一部の学者が唱える「見た目のアンチエイジングなどまやかしである」という暴言に対する反撃のつもりである。
さて親父に話を戻すと、親父百歳の夏は異状に暑かった。40度近くになったろうか。その暑い最中、いつものように三島スプリングスに親父は出かけたが、珍 しくハーフで帰ってきた。そして次のようにぬかした。「おい、信幸、暑さがこたえるというのはおれも年かもしれん」親父はいささか遅咲きにしても、誰でも 加齢とともに体力が衰えていくのは致し方ない。
ところで、今医学分野で抗加齢を論ずる方は、まだ五十代の方が多い。いろいろなデーターに基づいて、老年期を論じておられるのは結構だが、僕が今強く感ずるのは、75歳を過ぎて始めて実感できることが多々あるということだ。
たとえば体力の衰えを感じ、記憶力の減退に直面したときの不安感。これは頭では分かっていても、己の限界を感じた時の悲哀感はその時にならねば分からない だろう。その衰えを穏やかにメンテナンスするのが抗加齢であることは間違いないが、加齢とともに上昇曲線をたどる能力がある。それは知力、判断力である。 これは経験の積み重ねなので、年輪のように年とともに加算されていく。不幸にして認知症が始まらなければだが。
そこで僕は声を大にして言いたい。これからの年月は、新たに与えられた貴重な人生である。もちろん価値観は人さまざまである。これは体力以上に加齢ととも に個人差が広がってくる。静かに余生を過ごしたいというのも、尊重すべき価値観の一つであろう。ただ僕は、何年かは神のみぞ知る、ボーナスとも言える貴重 な後期高齢者の期間を、この年になって初めて言えることを延べ、失敗の繰り返しから学んだ他人への思いやりを深め、さらには過去の経験の集積による複眼的 視野に基づいた創造性を高めるよう努力したいと思う。
十年ほど前、僕はNPO法人アンチエイジングネットワークを起ち上げた。そして次の言葉をそのモットーとして凝縮した。
「未来を予測するもっとも確実な方法は自分で作り出すことである。」
賛同される方は、ぜひご一緒に頑張りましょう、しかも楽しみながら。
(了)


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● 442 書物「西郷隆盛の教え(西郷南洲遺訓)」について
06 Feb (Fri) 01:23 
From:岡田 次昭 南高 11期  

この書物はハイブロー武蔵著・薩摩総合研究所「チェスト」監修により、2008年9月3日に初版が発行されました。総合法令出版株式会社から出版され、定価はわずか830円です。
この書物のお陰で西郷隆盛の素晴らしい遺訓を容易に理解できることになりました。
なお、岩波文庫の「西郷南洲遺訓」は読解力のある人でないと読みこなすことができない書物です。
「まえがき」において著者は次のように述べております。
『西郷隆盛は日本人が歴史上最も誇りに思う偉人である。それは、尊敬されるばかりか、「西郷さん」と親しみを持って話され、愛される人という点で、世界で もユニークな英雄である。西郷隆盛の偉大さは、江戸幕府を倒し、封建制度を終わらせ、明治維新を実現させた第一の功労者であったということに加え、人間と して理想に近い「徳」を身につけていたというところにある。リーダーとして公平であり、私利私欲がまったく無く、心はどこまでも広く、清く、さわやかで、 会う人会う人を心から気持ちよくさせてしまうのであった。西郷は、残念なことに自ら書き残した本は存在しない。ただ、ここにある西郷南洲遺訓と呼ばれる口 述筆記があるのみだ。自らのことを誇らず、自慢などしない謙虚なこの人物が、中央政界から退いて鹿児島で隠遁生活をしている時に、教えを乞いに来たかつて の敵方である、庄内藩の人たちによって書きとどめられたものである。敵方をも包み込み、愛されてしまう西郷隆盛こそ、東洋思想が目指した「仁の人」の辿り 着いた理想型であったと言えよう。』(以下略)

西郷隆盛の言葉は、現代にも通じる箴言とも言うべき言葉で、素晴らしいの一言に尽きます。
最後に記載した「己に克つに、時々物々時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼ねて気象を以て克ち居れよとなり。」の言葉は、身に沁みます。今から、前もって自分の精神を鍛えて自分に克つように私は努力するつもりです。

それでは、西郷南洲遺訓の一部を皆さんに紹介します。



(原文のまま)

01 賢人百官を総べ(スベ)、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、たとえ
人材を登用し、言路を開き、衆説を容るる共、取捨方向無く、事業雑駁にして成功あるべからず。昨日出でし命令の、今日たちまち引き易うる(ヒキカウル)と云う様なるも、皆統括する所一(トコロヒトツ)ならずして、施政の方針一定せざるの致すところなり。
(現代語訳)
賢人が多くの官僚を統御して、政権が一つの方針のもとに進み、国体が一つの体制に纏まらなければ、たとえ人材を登用し、発言する道を開き、広く民間の意見 を採り入れても、取捨選択するのに方向がなく、国の事業がばらばらになってまとまらず、成功しないことになる。昨日出された政令を今日すぐに取り代えてし まうような現状は、すべて統括する者の方針が一つになっていないからであって、政治の方針が一定しないからである。

02 忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り宇宙に弥(ワタリ)易う(カウ)べからざるの要道なり。道は天地自然の物なれば、西洋といえども決して別無し。
(現代語訳)
忠孝、仁愛、教化の道は、国の政治の大きな本となるものであって、万世にわたり、宇宙のどこにおいても変わらない大事な道である。この道は天地自然の物であるから、西洋といえども決してちがうものではないのである。

03 古より君臣共に己れを足れりとする世に、冶功(チコウ)の上がりたるはあらず。
自分を足れりとせざるより、下々の言も聴き入るるものなり。己れを足れりとすれば、人己れの非を言えば忽ち怒るゆえ、賢人君子は之を助けぬなり。
(現代語訳)
昔から君主と臣下がともに自分は完全だと思って政治をしている世は、うまく治まるものではない。自分はまだ足りないところがあると思っているからこそ、 下々の言うことも聞き入れられるものである。自分が完全だと思っているときは、人が自分の欠点やまちがいを指摘するとすぐに怒ってしまうから、賢い人や立 派な人格者である君子はこういう人を助けないのである。

04 何程制度方法を論ずる共、其人に非ざれば行われ難し。人ありて後(ノチ)方法の行われるものなれば、人は第一の宝にして、己れその人に成るの心懸け肝要なり。
(現代語訳)
どんなに制度や方法を議論しても、それを行う人が立派で、できる人でなければうまく行われないだろう。まず立派で、できる人があってから、その方法が行われるものであるから、人こそ第一の宝であって、自分もそのような人物になるように心がけるのが大切なのである。


05 道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛するなり。
(現代語訳)
人の生きる正しい道は天地自然のものであって、人はこれを行うものであるから、天を敬うことを目的とすべきである。天は人も同じように愛し給うから、自分を愛する心をもって人を愛するのである。

06 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
(現代語訳)
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして自分の最善を尽くし、うまくいかなくても人の非や過ちを咎めるのではなく、自分の誠の足りないことを反省すべきである。

07 己を愛するは善からぬ(ヨカラヌ)ことの第一なり。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功に伐(ホコリ)驕慢の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己れを愛せぬものなり。
(現代語訳)
自分のことだけを愛し大切に考えるようなことは、よくないことの第一である。修業ができないのも、事が成就しないのも、過ちを改めることが出来ないのも、 自分の功績を自慢しうぬぼれるのも、すべて自分ばかりを愛しすぎることから生ずることであるから、決して自分を愛しすぎてはいけないのである。

08 過ちを改るに、自ら過ったとさえ思い付かば、それにて善し。其の事をば棄て顧みず、直ちに一歩踏み出すべし。過ちを惜しく思い、取繕わんと心配するは、譬えば茶碗を割り、其欠けを集め合せ見るも同じにて、詮(セン)もなきことなり。
(現代語訳)
過ちを改めるにあたっては、自ら誤ったと思いついたら、それでいい。そのことをすぐに思い捨てて、ただちに一歩踏み出していくことだ。過ちを悔しく思って その過ちをとりつくろうと心配するのは、例えば茶碗を割って、そのかけらを集めて合わせようとしているのと同じであり、まったく意味ないことである。

09 道を行うには尊卑貴賤の差別無し。摘んで(ツマンデ)言えば、堯舜(ギョウシュン)は天下に王として万機の政事を執り給え共、其の職とする所は教師な り。孔夫子(コウフシ)は魯国を始め、何方(イズカタ)へも用いられず、しばじは困厄(コンヤク)に逢い、匹夫にて世を終え給いしか共、三千の徒皆道を 行いしなり。
(現代語訳)
正しい道を行うことに身分が低いとか尊いとか卑しいとかの区別はない。要するに昔で言えば、中国古代の堯舜は、天下の王としてすべての政事を行っていた が、その果たした役割、仕事は人々に正しい道を教える教師であった。孔子先生は生まれ故郷の魯国をはじめ、どこの国においても用いられず、何度も困難な目 に遭って、身分の低いままに一生を終えられたが、三千人といわれるその弟子は皆その教えに従って正しい道を行ったのである。

10 道を行う者は、固より(モトヨリ) 困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の正否身の生死抔(ナド)に、少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、物には出来る人出来 ざる人あるより、自然心を動かす人もあれ共、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に、只管(ヒタスラ)道を行い道を 楽しみ、若し艱難に逢うて之を凌がんとならば、弥弥(イヨイヨ)道を行い道を楽しむべし。予(ヨ)壮年より艱難という艱難に罹りしゆえ、今はどんな事に出 会う共、動揺は致すまじ。それだけは仕合わせなり。
(現代語訳)
正しい道を歩き、そして行う者は、必ず困難や苦しみに出会うものだから、どんな艱難の立場に置かれようとも、その事が成功するか失敗するかということや自 分が生きるか死ぬかということに心をとらわれすぎないようにしたい。物事をなすには上手下手があり、物事によってよくできる人とできない人もあるから、正 しい道を行うことについて心配する人もあろう。しかし、人は本来正しい道を行うことになっているのであるから、そのことについては上手下手も無く、できな い人もないのである。だから、ただひたすら正しい道を行い、その道を楽しみ、もし艱難に出会おうとも、これを乗り越えて行くぞと覚悟したならば、いよいよ 正しい道を行い、そのことを楽しむべきである。私は、若い頃から艱難という艱難に出会ってきたので、今はどんなことに出会っても動揺することはないだろ う。それだけは幸せである。 
(補足)
孔子が最も愛した弟子である顔回を誉めた言葉が論語にあります。
「子曰く、賢なるかな回や。一箪の食(イッタンノシ)、一瓢の飲(イッピョウノイン)、陋巷(ロウコウ)に在り。人は其の憂えに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。」
どんなに不遇であろう、貧乏しようと、正しい道を歩き行うことを楽しめる人は、最高の人格者である。そういう生き方をした顔回や西郷などの偉人がいたことを、私たちは忘れるべきではないだろう。

11 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れ共 (サレドモ)、今様(カヨウ)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付、孟子に、「天下の広居(コウキョ)に居り、天下の正位に立ち、天下の大 道を行う。志を得れば民と之に由り、志得ざれば一人其の道を行う。富貴も淫すること能わず。貧賤も屈すること能わず、威武も屈すること能わず」と云いし は、今仰せられし如きの人物にやと問いしかば、いかにもその通り、道に立ちたる人ならでは彼の(カノ)気象は出ぬなり。
(現代語訳)
命も入らない、名声も入らない、官位も金もいらないという人は、始末に困る、扱いにくい人である。しかし、この始末に困るほどの人でなければ艱難を共にし て、国家の大業は成し得ないのである。ところが、このような人は普通の人の眼では見抜くことができない、と言われるので、それでは、孟子に「本物の人物と いうのは、仁という広い家に住み、礼という天下の正しい位置に立って事を行い、義という天下の正しく大きな道を行い、志を得て用いられれば、人々とともに 仁、礼、義の道を行い、志が得られず用いられないときは、独りでその道を行う。どんな富や地位をもって誘われてもその人の正しい道を曲げさせることは出来 ず、どんなに貧しくて身分が低かろうとその正しい生き方を変えることはできない。さらにその人を如何なる権威や武力で屈させようとしてもできないような人 物だ」とありますが、これが今言われたような人物のことですかとたずねたら、いかにもその通りで、正しい道を行う人でなければこのような気性は出てこない ものなのだと答えられた。
(補足)
この出だしの有名な言葉は、西郷隆盛自身のことを指している。また西郷が率いた薩摩の信頼する者たちのことを言っている。幕末において、英雄は数多くいた し、命知らずの者はたくさんいたが、名声や官位やお金についてまったく関心がなく、「いらん」と言う人そういなかったのではないだろうか。英雄の中の英雄 は、ただ国や社会、そしてそこに住む人々の幸せを実現することのみに関心があるのだ。そういう英雄として挙げることができるのは、西郷隆盛を筆頭として、 橋本左内、勝海舟、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉田松陰、高杉晋作たちであり、また西郷を支えた村田新八などであろう。しかし、このわずかな数の真の英雄たち が、明治維新の大業をなし遂げさせていったのである。

12 道を行う者は、天下挙って(コゾッテ)毀るも(ソシルモ)足らざるとせず、天下挙げて誉むるも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きがゆえなり。その工夫は、韓文公が伯夷の頌(ショウ)を熟読して会得せよ。
(現代語訳)
正しい道を行っていく者は、国中の人みんなが悪く言うようなことがあっても不満を言わず、国中の人みんながほめても自分に満足することはないというのは、 自分を厚く信じているからである。そのような人物になる方法は、たとえば韓文公(韓退之、唐の文章家)の伯夷の行為を称えた文章を熟読して身につけること である。

13 道に志す者は、偉業を貴ばぬものなり。司馬温公は閨中にて語りし言も、人に対して言うべからざる事無しと申されたり。独りを慎むの学推して知るべし。人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒むべし。
(現代語訳)
正しい道の生き方を志す者は、大きな業績を誇ることを貴ばないものだ。
司馬温公(宋の学者、政治家)は寝室の中で妻と語ったことでも、人に対して言えないことはないと言われた。独りを慎むという司馬温公の教えがいかなるもの か、これでもわかるだろう。人の意表に出て、あっと言わせ一時的にいい気分になるのを好むというのは、未熟な人のすることだから、戒しめなければならな い。
(補足)
西郷と松蔭の交流は全くなかったものの、幕末に日本が生んだ二大偉人である。無私であること、天皇と日本を守り抜こうと考えたこと、牢獄にあっても学びつ づけたこと、多くの優秀な若者を育てたことなどが共通している。新渡戸稲造の名著『武士道』もこの二人のイメージ、そして思想と生き方が大きく影響してい ると思われる。死を覚悟した獄中での詞文も共鳴し合うかのようだ。
生死何ぞ疑わん 天の賦与なるを 願わくば魂魄を留めて 皇城を護らん
(西郷隆盛)
身はたとひ 武蔵野の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
(吉田松陰)

14 人を篭絡して陰に事を謀る者は、好し(ヨシ)其事を成し得る共、慧眼よりこれを見れば醜状著るしきぞ(シュウジョウイチジルシキゾ)、人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬(ト)られぬものなり。
(現代語訳)
人をごまかして陰(カゲ)で事を謀ろうとする者は、たとえそれがうまく行われたとしても、慧眼の人から見れば、実に醜いものであることがわかるのであ る。人に対しては、公平にそして心からの誠実さをもって接しなくてはならない。公平でなければ英雄(すぐれた人物)の心は決してつかむことはできないだろ う。

15 天下後世までも信仰悦服(シンコウエップク)せらるるものは、ただ是一箇の真誠なり。古より父の仇を討ちし人、その麗ず(カズ)挙げて数え難き中に、 独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者のあらざるは、衆に秀でて誠の篤き(アツキ)ゆえなり。誠成らずして世に誉めらるるは、僥倖の誉 れなり。誠篤ければ、縦令(タトエ)当時知る人なく共、後世必ず知己あるものなり。
(現代語訳)
この世の中で後世までも信じ仰がれ、喜んで心から従うことが出来るものは、ただひとつ人間の心からの誠である。昔から父の仇を討った人は数え切れないほど たくさんいるなかで、曾我兄弟だけが、今の世に至るまで女子・子供でも知らない人はないのは、特に抜きんでて誠の心が篤かったからである。誠の心なくして 世の中で誉められるのは偶然の幸運にすぎない。誠が篤ければ、たとえ、その時代に知る人がなくても後の世に必ず心の友ができるものである。

16 世人の唱うる機会とは、多くは僥倖の仕当てたるを(シアテタルヲ)言う。真の機会は、理を尽くして行い、勢いを審らかに(ツマビラカニ)して動くと云う に在り。平日、国天下(クニテンカ)を憂うる誠心厚からずして、ただ時のはずみに乗じて成したる事業は、決して永続せぬものぞ。
(現代語訳)
世の中の人がよく言う機会とは、多くはまぐれ当たりで得た幸せのことである。真の機会というのは、道理を尽くして行い、時の勢いをよく見極めて動くという ところから生まれる。普段から国や世の中の事を憂うる心からの誠が篤くなくて、ただのはずみによって成功した事業は、決して長続きしないものである。

17 翁に従いて犬を駆り兎を追い、山谷を抜渉(バッショウ)して終日猟り暮らし、一田家(デンカ)に投宿し浴終わりて心神(シンシン)いと爽快に見えさせ給い、悠然として申されけるは、君子の心は常に斯くの(カクノ)如きにこそ有らんと思うなりと。
(現代語訳)
あるとき南洲翁につき従って犬を走らせ兎を追い、山や谷を渡り歩き、一日中狩りをして暮らした。そして田舎の一軒家に泊まって、湯に入り、身も心もとても爽快になったご様子のとき、南洲翁は悠然と云われた。「君子の心はいつもこのようなものであろう」。

18 身を修して己を正して、君子の体を具うる共、木偶人(モクグウジン)も同然なり。
譬えば(タトエバ)、数十人の客不意に入り来たらんに、たとえ何程饗応したく思う共、兼て(カネテ)器具調度の備なければ、ただ心配するのみにて、取賄 うべき様あるまじぞ。常に備えあれば、幾人なり共、数に応じて賄わるるなり。それゆえ平日の用意は肝心ぞとて、古語を書いて賜りき。
文は鉛槧(エンザン)に非ざるなり。必ず事を処するの才なり。武は剣楯(ケンジュン)に非ざるなり。必ず敵をはかるの智あり。才智の在るところ一のみ。
(現代語訳)
自分で修養し、心を正しくして立派な君子のような形をそなえたようであても、事にあたって対処できない人は、それは木でつくった人形と同じである。たとえ ば、数十人のお客が突然押しかけてきたとき、たとえどんなにもてなそうと思っても、前もって器具や調度品の準備ができていなければ、ただ心配するだけで、 もてなすこともできないだろう。いつもそれらが準備されていれば、何人来ようとも数に応じてもてなすこともできるのである。だから何ごとも日頃からの用意 が肝心なのであると言って、昔の言葉を書いてくださった。
文(学問)というのは、ただ文章を書くことをいうのではない。必ず事にあたって対処できる才のあることである。武(武道)とはただ剣や楯をうまくつかいこ なすことではない。必ず敵を知ってこれに対処できる知恵のあることである。才能と知恵がともになければならないのである。

19 己れに克つに、時々物々時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼ねて気象を以て克ち居れよとなり。
(現代語訳)
自分に克つということは、すべての事をその時その時において克とうとしてもうまくいかないものである。前もって自分の精神を鍛えて自分は克つ樣に修業しておかなくてはいけないのである。

(了)

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● 441 書物「言志四録(佐藤一斎の教え)」について
06 Feb (Fri) 01:18 
From:岡田 次昭 南高 11期  

言志四録の著者である佐藤一斎は、安政元年(1772年)10月20日、美濃の国岩村藩士の次男として江戸・浜町の藩邸内で誕生しました。 1790年から藩の家臣となり、間もなく林述斎から儒学を学び、1793年に昌平坂学問所に入門し、1805年にはわずか33歳で塾長に就任しました。
70歳になった時に昌平黌(現在の東大)の儒官なり、儒学の最高権威として88歳まで活躍しました。門下生は6,000人余といわれ、その中には、佐久間 象山、渡辺崋山、横井小楠等の有名人がいます。彼は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であったと伝えられています。
なお、言志四録は彼が後半生の四十余年にわたって書いた語録です。
それは「言志録」「言志晩録」「言志後録」「言志耋録」の四部からなっております。その合計は1,033条もあります。
書物「言志四録(佐藤一斎の教え)」は、言志四録の中から、101ヶ条が現代語訳と解説付きで編集されております。これは西郷隆盛が自らの生きる指針とし て厳選し、座右の銘としたものです。これを見てもお分かりの通り、西郷隆盛ほどの人物がこれほどまでに心酔した佐藤一斎が如何に素晴らしい人物であったか ということを理解することができます。
著者は、ハイブロー武蔵氏です。彼は、1954年福岡県生まれで、現在54歳です。早稲田大学法学部卒業後、著作に専念し「通勤大学 図解・速習」シリー ズを続々と上梓しております。「西郷隆盛の教え」「松蔭の教え」「新訳 武士道」それに本書です。定価わずか840円にて、彼は、私たちに豊富で有益な情 報を提供しております。
特に、最後に記載した文章には感銘を受けました。要約しますと「何歳になろうとも学ぶという孔子の志を自分の志にしなさい」ということです。
なお、西郷隆盛が厳選した101ヶ条は岩波文庫「西郷南洲遺訓 附 手抄言志録及遺文」に収録されております。原文は漢詩で書かれております。01以下の 文章はその譯(ヤク)です。これを読んでも理解は困難です。古文や漢詩に精通している方でなければ到底理解することはできません。
この「言志四録(佐藤一斎の教え)」の現代訳を読むことによって、私はようやく理解することができました。
余談ながら、2001年5月、小泉純一郎氏が総理大臣に就任直後、衆議院において教育関連法案の審議中にこの言志四録の内、「言志晩録」について触れ、一躍有名になりました。(但し、下記の文章は、101ヶ条に含まれておりません。)
「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり」
「壮にして学べば、則ち老いて衰えず」
「老いて学べば、則ち死して朽ちず」

すべてを紹介することはできませんので、101ヶ条の内、29条を下記に記載しておきます。



(原文のまま)

南洲手抄言志録の原文は漢詩です。その一部を記載しておきます。
勿認遊惰以為寛裕。(以下略) この文章はなかなか読めません。
01以下の文章はその譯(ヤク)です。

01 遊惰を認めて以て寛裕と為すこと勿かれ。厳刻を認めて以て直諒(チョクリョウ)を為すこと勿かれ。私欲を認めて以て志願と為すこと勿かれ。
「言志耋録 210」
(現代語訳)
遊び怠けている人を見て、ゆったりとし心が広い人だと見誤ってはいけない。他人に厳しく叱る人を見て、正直で偽りのない人と思ってはいけない。私利私欲のために頑張っている人を見て、志の実現に向かっていると思ってはいけない。

02 毀誉得喪は、真に是れ人生の雲霧なり。人をして混迷せしむ。此の雲霧を一掃すれば、則ち天青く日白し。
「言志耋録 216」
(現代語訳)
名誉や不名誉、あるいは成功や失敗というものは、人生における雲や霧のようなものである。しかし、これらが人の心を暗くし、迷わせてしまうのである。だからこの雲や霧を心から払いのけてしまえば、天は青く、日は白く輝くように、人生も真に明るいものとなるのである。

03 凡そ(オヨソ)事を作す(ナス)には、すべからく天に事うる(ツカウル)の心有るを要すべし。人に示すの念有るを要せず。
「言志録 3」
(現代語訳)
すべて事を成そうとしていく時には、天に仕えるのだという心を持つことが大事である。
人に見せつけたいというような気持ちがあってはいけない。

04 著眼(チャクガン)高ければ、則ち理を見て岐せず(キセズ)。
「言志録 88」
(現代語訳)
物事を大所高所から見るようにすれば、道理がよく見えて迷わなくなる。

05 己を喪えば斯に(ココニ)人を喪う。人を喪えば、斯に物を喪う。
「言志録 120」
(現代語訳)
自分を失うと人の信用と友人を失うことになる。人の信用と友人を失うと何もかも失う寂しい人生となる。

06 本然の真己(シンコ)有り。躯殻(クカク)の仮己(カコ)有り。須らく(スベカラク)自ら認め得んことを要すべし。
「言志録 122」
(現代語訳)
人の本質たる善性を持った真の自己がある。一方で身体を備えた仮の自己がある。この二つの自己があることを認めて、仮の自己のために真の自己をだめにしてしまわないようにしていかなくてはならない。

07 已む可からざる(ヤムベカラザル)の勢に動けば、則ち動いて括(クク)られず。枉ぐ(マグ)可からざるの途(ミチ)履めば、則ち履んで危からず(アヤウカラズ)。
「言志録 125」
(現代語訳)
これをやるしかないとまで考え抜いた上でのやむにやまれぬ勢いで動けば、何ものにもさえぎられない。また、曲げることのできない正しい道を行っていけば危険なことはない。
(注)
西郷隆盛は、次のように述べています。恐らく佐藤一斎のここでの教えを実践したうえでの確信ではないでしょうか。
「事の大小に関係なく、正道を踏んで至誠をつくして行うべきで、少しも詐謀を用いてはならない。人は多くの場合、あることに差し支えがでて行き詰まると、 策略を用いていったん行き詰まりをなくして通しておけば、あとは時に応じて何とかよい工夫ができるように思っているが、策略を用いたための問題が必ず出て きて、必ず失敗に至るのである。正道を踏んで行くことは、迂遠な回り道のように見えるが、先に行けば、かえって成功は早いものである。」(西郷隆盛の教え より)

08 急迫は事を敗り(ヤブリ)、寧耐(ネイタイ)は事を成す。
「言志録 130」
(現代語訳)
何事も急ぎすぎては失敗する。沈着にかまえて時が来るのを待っていれば事は成就する。

09 聖人は死に安んじ、賢人は死を分(ブン)とし、常人は死を畏る。
「言志録 132」
(現代語訳)
聖人は死に対して心が安らかであり、賢人は死をよく理解して受け入れ、常人はただ死を恐れている。

10 賢者は歾する(ボッスル)に臨み、理の当に(マサニ)然るべきを見て以て分と為し、
死を畏るることを恥じて死に安んずることを希う(ネガウ)。故に、神気(シンキ)乱れず。又遺訓有り、以て聴を聳かすに足る。而して其の聖人に及ばざる も、又此に在り。聖人は平生の言動、一として訓に非ざる無くして、歾するに臨み、未だ必ずしも遺訓を為さず。死生を視ること、真に昼夜の如く、念を著くる (ツクル)所無し。
「言志録 133」
(現代語訳)
賢者は死に臨んで、それが当然の理であることを受け入れ、死を恐れることを恥じ、心安らかに死ぬことを願う。ゆえに精神が乱れない。また、残された遺訓が あって傾聴に値する内容となる。しかし、賢者が聖人に及ばないというのもここにある。聖人は平生の言動がすべて教訓となるものであって、死に臨んで遺訓を 述べる必要がないのだ。生死を見ること、まるで昼夜を見るようであって、特別のものとは見ないのである。

11 一部の歴史は、皆 形迹(ケイセキ)を伝うれども、而も情実は或は伝わらず。
史を読む者は、須らく形迹に就きて以て情実を討ね(タズネ)出すを要すべし。
「言志録 141」
(現代語訳)
一部の歴史が伝えるものは、すべて外に現れた形跡だけであって、内に隠された真実は伝わってこない。歴史を読む者は、外にあらわれた形跡から、内の真実を見つけ出すことが大切である。

12 博聞強記(ハクブンキョウキ)は聡明の横(オウ)なり。精義入神(セイギニュウシン)は聡明の竪(ジュ)なり。
「言志録 144」
(現代語訳)
広く物事を学び多くの知識を有していることは人が聡明になる横糸であり、深く道理を探求してその境地を身につけていくことは、人が聡明になる縦糸である。

13 誘掖(ユウエキ)して之を導くは、教えの常なり。警戒して之を喩すは(サトスハ)、教の時なり。躬行(キュウコウ)以て之を率いるのは、教の本なり。言わずして之を化するは、教の神なり。抑えて之を揚げ、激して之を進むるは、教の権にして変なるなり。教も亦術多し。
「言志後録 12」
(現代語訳)
教える子弟の側にいて助け導くのは教育の常道である。子弟が道を逸れようとしているとき戒め、さとすのは時を得た教え方である。教え導く人が自ら先に実行 してみて、次に子弟にやらせてみるのは教育の基本である。口うるさく言わないでも子弟を教えていけるのが教えの神妙なる方法である。抑えてからのちに誉め てあげたり、激励して進めさせたりするのは時に応じた教え方であり、臨機応変の方法である。このように教え方にもいろいろなものがあり、それを身につける べきである。
(注)
連合艦隊司令長官山本五十六の次の言葉も、人を伸ばす教え方として良く知られています。
「やってみて、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ。」

14 閑想客感(カンソウカクカン)は、志の立たざるに由る。一志既に(イッシスデニ)立ちなば、百邪退聴(ヒャクジャタイチョウ)せん。之を清泉湧出(セイセンユウシュツ)すれば、旁水(ボウスイ)の渾入(コンニュウ)するを得ざるに譬う(タトウ)。
「言志後録 18」
(現代語訳)
心の中につまらないことを考えたり、外部のことに心を動かされたりすることは、志がしっかりと立てられていないからである。一つの志がしっかりと立てられ ていれば、もろもろの邪念はすべて退散してしまうものだ。これは、ちょうど滑らかな泉が湧き出ると外からの水は混入できないようなものである。

15 人の一生遭う所には、険阻有り、坦夷(タンイ)有り、驚瀾(キョウラン)有り。是れ気
数の自然にして、ついに免るる能わず。則ち易理なり。人は宜しく居って(オッテ)安んじ、玩んで(モテアソンデ)楽しむべし。若し之を趨避(スウヒ)せんとするは、達者の見(ケン)に非ず。
「言志後録 25」
(現代語訳)
人の一生で出会うものは、道にたとえれば、険しいところもあり、平坦なところもある。また、水路にたとえれば穏やかな流れもあり、逆巻くような大波もあ る。こういうことは、自然の運命であり、免れることはできないことである。易でいう道理ということだ。だから人は、今自分の居るところに安んじて、このよ うな変化を楽しめばいいのだ。そうではなくて、これを急ぎ避けようとするのは、決して人生の達人の見識とは言えないだろう。

16 心の官は則ち思うなり。思うの字はただ是れ工夫の字のみ。思えば則ち、
いよいよ精明に、いよいよ篤実なり。其の篤実なるよりして之を行(コウ)と謂い(イイ)、其の精明なるよりして之を知と謂う。知行は一の思うの字に帰す。
「言志後録 28」
(現代語訳)
心の働きは、思うということある。思うということは、正しい道の実践について工夫・努力を重ねることである。思えば、正しい道についてますますくわしくわ かり、いよいよ誠実に取り組むようになる。その誠実に取り組むことを「行」といい、そのくわしくわかることを「知」という。従って、「知」も「行」も、結 局は「思」の一字に帰することになる。

17 信を人に取ること難し。人は口を信ぜずして躬(ミ)を信じ、躬を進ぜずして心を信ず。是を以て難し。
「言志録 148」
(現代語訳)
人に信用されることは難しいものだ。うまいこと言われても、人はその言葉よりも行動を見て判断するからだ。いや、行動を見てというよりも、その人の心のあり方を見て判断するのだ。だから人に信用されることは難しいことなのだ。
(注)
孔子は次のように心のあり方を見て、人物を観察しなさいと言っております。
「まず、その人の行っていることをよく注意して見る。次にその行為の原因、動機を見抜く。さらにその行為の結果に対してどのように安心しているかを観察する。そうすればその人の性質は隠せるものではない。すっかりわかってしまうものである。」

18 臨時の信は、功を平日に累ね(カサネ)、平日の信は、效を臨時に収む。
「言志録 149」
(現代語訳)
突発的に起こった問題をうまく解決していくことで信用を得ていくことがある。また、日頃の信用があることで、突発的な問題にうまく対処できることもある。

19 信、上下に孚すれば(フスレバ)、天下甚だ処し難き事無し。
「言志録 150」
(現代語訳)
上下の人に信用されれば、天下にできないことはない。

20 意(ココロ)の誠否は、須らく夢寐中(ムビョウチュウ)の事に於て之を験すべし。
「言志録 153」
(現代語訳)
自分の心が真に誠実かどうかは、夢の中でも試してみるがよい。

21妄念を起さざるは是れ敬にして、妄念起らざるは是れ誠なり。
「言志録 154」
(現代語訳)
よくない考えを起こさないのが敬であり、よくない考えが起きないのが誠である。

22 匿情(トクジョウ)は慎密(シンミツ)に似たり。柔媚(ジュウビ)は恭順に似たり。
剛愎(ゴウフク)は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む(ニクム)。
「言志録 214」
(現代語訳)
自分の感情を隠し外に出さないことは、慎み深く見えたりする。物腰が柔らかくて人に媚びる態度は、うやうやしく従っているように見えたりする。ひねくれて いて強情な者は、自分の正しさに自信があるように見えたりする。君子たる者はこのような似て非なる者をにくむものである。
(注)
論語にも孔子の次の言葉があります。「子曰く、郷原は徳の賊なり」
つまり「どんな低俗の人にも気にいられようとする者は道徳家のように見えるが、実は徳を害する者である。」
世の中には、見かけだけ立派であって、中身は人間としての徳に欠ける人がいるが、こういう人こそタチの悪い、危険な人物なのだということです。

23 学は自得するを貴ぶ(タットブ)。人徒に(ヒトイタズラニ)目を以て字有るの書を読む。故に字に局して、通透するを得ず。当に(マサニ)心を以て字無きの書を読むべし。乃ち(スナワチ)洞して(トウシテ)自得する有らん。
「言志後録 138」
(現代語訳)
学問は自分自身で納得するまでやるのが貴い。書を読むときでも人は徒に 目で文字を追うだけのようだ。従って、字づらにとらわれてしまい書物が真に伝えたいものを読み通すことができないのである。だから書を読むときは、心眼を 開いて眼光紙背を徹するほどに読み込まなくてはならない。こうすることで書物が伝えたいところが明らかになり、納得できるようになるのだ。

24 読書も亦心学なり。必ず寧静(ネイセイ)を以てして、躁心(ソウシン)を以てする勿れ。必ず沈実を以てして浮心を以てする勿れ。必ず精深を以てして、粗心 を以てする勿れ。必ず荘敬を以てして、慢心を以てする勿れ。孟子は読書を以て尚友と為せり。故に経籍を読むは、則ち是れ厳師父兄の訓(オシエ)を聴くな り。史子(シシ)を読むも亦則ち明君、賢相、英雄、豪傑と相周旋するなり。其れ其の心を清明にして以て之と対越せざる可けんや。
「言志後録 144」
(現代語訳)
読書もまた心を修養する学問の方法である。従って必ず心を安らかにし、そして静め、さわがしい心で読んではいけない。必ず落ち着いた心で読み、浮いた心で 読んではいけない。必ず詳しく深く読み、粗雑な心で読んではいけない。必ずつつしみ敬まった心で読み、うぬぼれた心で読んではいけない。
孟子は、読書することは昔の偉人を友とすることだと言った。だから四書五経を読むことは、厳しい先生や父兄から教えを聴くようなことである。また、歴史書 や書子百家を読むのは、直接に賢明な君主、賢い宰相、英雄、豪傑と交際するのと同じである。だから、心を清明にして、書物の偉人たちにも負けない気概を もって対話することが求められるのだ。

25 人は皆身の安否を問うことを知れども、而も心の安否を問うことを知らず。宜しく自ら問うべし。「能く闇室を欺かざるか否か。能く衾影(キンエイ)に愧じ (ハジ)ざるか否か。能く安穏快楽を得るか否か」と。時時(ジジ)是くの(カクノ)如くすれば心便ち(スナワチ)放れず。
「言志後録 98」
(現代語訳)
人は皆、自分の体の健康について心配するが、心の健康については心配しない。だが、適宜、自分の心に次のように問うてみるべきである。「暗い部屋の中でも 自分の良心を欺いていないかどうか。一人寝るときに、自分の寝具に恥じることはないかどうか。自分の心がいつでも安らかで穏やかかどうか。また、日々愉快 に楽しめているかどうか」。時々、こうして自分の心に問えば、心はいい加減にはならないだろう。

26 為す無くして為す有る、之を誠と謂い、為す有りて為す無き、之を敬と謂う。
「言志後録 100」
(現代語訳)
ことさらに何かしてやるぞと大言しないで、自然のうちに成し遂げるのが「誠」である。やり遂げた事が、あたかも何もなかったかのようになっている事を「敬」という。

27 凡そ生物は皆養に資る(トル)。天生じて地之を養う。人は則ち地気の精英なり。吾れ静座して以て気を養い動行して以て体を養い、気体相資し、以て此の生を養わんと欲す。地に従いて天に事うる(ツカウル)所以なり。
「言志耋録 275」
(現代語訳)
およそ生物は皆「養」に頼らなければならない。なぜならば万物は天が生み出し、地がこれを養っていくものだからである。そして人は地気の精英、すなわち万 物の霊長という存在である。だから私は静座して気を養い(精神修養をし)、運動して体を養い(体を鍛え)、心身互いに助け合ってこの清明を養おうと思う。 これが万物を養う地に従って、万物を生み出した天につかえるということである。

28 霊光の体に充つる時、細大の事物、遺落(イラク)無く、遅疑無し。
「言志耋録 275」
(現代語訳)
誠のこころで修養につとめていると、体に霊光が満ち溢れて、どんな小さなことも、大きいことも、落ち度なくうまく処理できるし、ためらうこともなく、処理できるようになる。

29 此の学は吾人(ゴジン)一生の負担なり。当に斃れて後已むべし。道は固と(モト)窮り(キワマリ)無く、堯舜(ギョウシュン)の上、善尽くること無 し。孔子は志学より七十に至るまで、十年毎に自ら其の進む所、有るを覚え、孜孜として(シシトシテ)自ら彊め(ツトメ)、老の将に(オイノマサニ)至らん とするを知らざりき。仮し(モシ)其れをして耄を踰え(ボウヲコエ)期に至らしめば則ち其の神明不測なること、想うに当に如何なるべきぞ。凡そ孔子を学 ぶ者は、宜しく孔子の志を以て志と為すべし。
「言志後録 98」
(現代語訳)
儒学は、私たちが一生学んでいかなくてはいけない大きな課題である。まさに死ぬまでやり抜かなくてはならないのだ。その道はもとより窮まりないものであ り、堯や舜が行ったこと以上に為すべき善は尽きることはない。孔子は学に志したときより七十歳に至るまで、十年ごとに自分が進んでいるところを自覚し、さ らに一生懸命に学問に励み、老いた年になっているのにも気がつかなかったという。もし孔子をして八十、九十を超え、百まで生き長らえたとすれば、その徳は 神の如く測り知れないものになっていただろう。およそ孔子を学ぶ者は、このような孔子の志をもって自分の志とすべきである。
(注)
この文章は、佐藤一斎57歳の時のものです。当時の57歳は既にかなりの老人といえます。孔子の教えを学ぶ以上、孔子の志を持ち、何歳になろうと学びつづ け、さらん向上していくぞという気概が窺えます。自分を励まし、世の壮年、老人たちにも、志を失うなと励ましてくれるのである。
(了)

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● 440 稲盛和夫著「薩摩のキセキ」について
06 Feb (Fri) 01:10 
From:岡田 次昭 南高 11期  

著者稲盛和夫氏は、薩摩に生を受け、薩摩で学びを深め、今に至るも心は薩摩とともにある者の1人であると自負しております。その彼が今般「薩摩のキセキ」を著しました。
皆さんご存じの通り、彼は京セラを設立し、社長、会長を経て、平成9年から名誉会長を務めております。
この書物によって、西郷隆盛や大久保利通等の薩摩隼人が如何にして明治維新を成し遂げたかを詳細に描いております。薩摩隼人という言葉は、日本の男子であれば一度はあこがれた言葉であると思います。私もその1人であります。
ここでは全てを紹介することは困難です。
従いまして、今回は、第T部 第4章 島津斉彬について述べることにします。
「島津に暗君なし」あるいは「島津に馬鹿殿なし」と言われております。その島津の勝れた殿様の中でも、特に英明であるとして全国に名が知られたのが第二十 八代藩主島津斉彬です。彼は1809年9月28日、江戸芝の薩摩藩屋敷で生まれました。父は島津家第二十七代藩主の斉興(ナリオキ)、母は鳥取藩主池田家 から入った周子(カネコ)でした。母の厳しい指導によって、斉彬は12歳の頃には、四書五経を読破しております。賢君間違いなしと誰からも見られておりま したが、藩主への道は険しいものでありました。父斉興とお由良の存在が彼を脅かしたのであります。お由良は斉興の寵愛を独り占めして自分の産んだ久光を次 の藩主に就かせるよう画策しておりました。その後、斉彬を藩主にと願う藩士達が結束を固め、久光派に反発しておりました。そして、ついには過激な行動計画 を立てたということで、斉興の怒りを買い、大弾圧を受け、多くの者が切腹及び遠島・謹慎を命じられました。これが「お由良騒動」です。
この事件を重く見た老中阿部正弘は、これを機に斉興の隠居と斉彬の藩主就任を斉興に迫り、ついに承諾させたのでした。
かくして、1851年2月、斉彬43歳に待望の藩主となることができました。
さて、藩主となってからの斉彬はそれこそ神業のような仕事をこなしました。
斉彬の殖産興業の具体化は、最終的に基礎的な実験を手がける施設を「開物館」と呼び、実用化のための工場施設を総称して「集成館」と呼んで、研究開発部門と工場の製品生産部門を分けました。これは今にも通じる方法と言えます。
開物館での実験は、金属の分析、メッキ加工、ガラスの製造、着色、さつまいもを原料としたアルコールなどです。また集成館で実用化をしたのは、反射炉、溶鉱炉、砲台、鋼鉄製造、ガラス、銃や剣などです。
また、人脈も他の藩主を圧倒しておりました。越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城(ムネナリ)、肥前の鍋島直正、尾張の徳川慶恕(ヨシク ミ)という素晴らしい人たちが斉彬を慕いました。更には、筆頭老中の阿部正弘も、松平春嶽を通じて斉彬を知り、まだ藩主でもない外様大名の世子をたちまち 尊敬するようになりました。先に述べた父斉興を隠居に導いたのはこの阿部正弘の後ろ盾があったからであります。
1859年7月8日、諸隊の連合大演習を城下の天保山で実施し、炎天下において、自ら兵の指揮を執っていました。ところが翌日斉彬は腹痛を覚え、発熱して 倒れてしまいました。そして、7月16日、斉彬はこの世を去りました。丁度50歳でした。藩主としてわずか7年の在位で終わってしまったのです。
司馬遼太郎は「斉彬は幕末のぎりぎりの風雪期を迎えることなく死ぬが、この人間として才能、人格共に豪華としか言い様のない政治的人間を失った日本史は、 幕末の政治劇のために予定されていた最大の名優をその開幕の直前になって失ったといっても言い過ぎではなく、むしろ足りないくらいであろう。」そして「斉 彬のことを調べれば調べるほど、大名という環境にいながらこういう人物が存在し得たのかという奇跡の思いがいよいよ強くなる。斉彬は、若い西郷隆盛を家臣 とみていなかった。実子か、最愛の門人かのような、あるいはそれ以上に自分の志の相続者として見ていたように思える。この斉彬のすぐれた叡智のともなった 情愛を、元来、忠誠心の強い西郷が、戦慄する想いで感じつづけていたであろうことは容易に想像できる。」と「翔ぶが如く」で述べています。
西郷隆盛は亡くなった斉彬公(順聖院)はどのような方だったのかとたずねられると「自分のような者が、順聖院様のことをかれこれ言えたものではない。おてんとう様のような方であったよ。」と語っております。
また、斉彬を尊敬していた賢君の1人である伊達宗城(ムネナリ)は晩年次のように語っております。
「70歳の今日に至るまで上下貴賤、そして国内、国外を問わず、多数の人に会ってきたけれども、いまだかって島津薩摩守斉彬のように、常に春風駘蕩に接し てくれる人を見たことがない。いちどその人柄に接すると、たちまち尊敬と慕う気持ちが沸き起こり、今日になってその徳の素晴らしさを述べたいのだけれど も、素晴らしさを表す言葉を見つけることができないのである。」
最後に、「日本の国旗である日章旗を初めて提案したのは、島津斉彬であった。」
という事実は、私にとっては初耳であります。斉彬の偉大さをこれ一つとっても十分に理解することができます。

(ご参考)

島津斉彬の残した言葉は今でも十分に通用します。

『島津斉彬の言葉』(原文のまま)

1. 失敗を怖れるな。トライ・アンド・エラー、そして成功だ。
「反射竈(ハンシャロ)建築は日本創業のことなるが故に、佐賀においては凡そ18回ほど改築してのち、鋳砲するに至れりと。此方には雛形にて僅かの試験を 以て成功すべき理なし、今より数十回、試験の労を積まば必ず功を見るべし。西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり、退屈せず倍々(マスマ ス)研究すべし。」

2. 戦争は国の大事である。勝てる準備をして、初めて戦えるものである。
「軍の要は兵士を大切にし、第一食事乏しからざるやうに心を用るを肝要とす。この品は攻守の間において己むを得ざる場に用る手当なれば、分(ワケ)て念入 れ、味をよきように製すべし。入費を厭うこと勿れ。入費を厭ふは平生の事なり。西洋にては蒸餅を製するに牛肉鶏肉等の前汁を以て製すと云う、期(ココ)ま で大事に愛養するものの由。軍事の要は人気(ジンキ)の一致を第一とし、次に兵糧足り機械の精良なるにあり。進退駆引の寛急(カンキュウ)は人気の一致 にあり。」

3. 国民が豊かになることが国家を強くすることである。
「物価平均せざれば、末々小前の輩困窮の基なり。常平倉(ジョウヘイソウ)建てたる趣意は飽まで承知の通り国民衣食の為に苦むは国主の耻なり、耻なるの みならず国乱の基なり。和漢ともに其の例多し、常平倉は仁政の本なり。四海困窮すれば天禄永く終らんと云うことは素より存じの前なるべし。又民富めば君富 むとは政治の眼目なり。」

4. 学問は儒学のほかに広く視野を世界に広げて行うことが必要である。
「学問の要は政事の根本なるを以て、此様申渡すに付て、分毫誤りあるときは国家に大害を生ずるの訳なれば、此書付は多目勘考におよびたり。自分の考え許り にては行届かざる廉(カド)も知るべからず、また癖見あるも計られず、或は他国に響き、心ある者の評論にかかり、笑ひを取りては我らの耻のみにあらず、 三カ国の笑を受しる訳なり。能々(ヨクヨク)熟覧し、關(ケツ)と相談して、添削もなすべし。殊に今の世は、以前よりの儒者流のみの見込みにては、時態適 当せざるなり、宇内(ウダイ)に眼を付けざれば、国政をなすこと能わざる場に変じ、外国の通信を允し(ユルシ)、弘く世界に交通すべき時となりたり。就 ては、国体を立て、彼の長ずる処は採り、我が短拙を補ひ、武備を厳にし、船舶の便を能くし、外国に乗り出して交る様に国威を張るを第一とす。然るときは、 自ら皇威万国に輝くべし、此の目的にして、学問を弘くし、教の本を立(タテ)んとの所在なり。」

5. 政治の目標は国民の教育であり、失業者を減らすことである。
「遊民は多きは治国の欠典なるはもちろんにして畢竟(ヒッキョウ)教えの道行届かざるに依れり。」
「国中の遊民を減ずるは経国の要なり。人間は、遊佚徒食(ユウイツトショク)すべきものにあらず、また国主として遊佚徒食して居らしむべき者にあらず。然れども其根本を考ふれば、畢竟(ヒッキョウ)政事の行届(ユキトド)ざるに帰す。

6. 人の和ほど重要なことはない。
(大老井伊直弼が政務を掌握し暴威をもって処するため、国中が騒がしくなっていることについて)
「此のごときの形勢に成立ちたる上は、天下の乱必ず近きにあるべし、内は人心紛乱し、外は外夷の難題に迫り、危急存亡の秋(トキ)なり。
古人の言の如く、人心の一致は政事の要目なり。此言は幼年の時講譯を聞いてより今に折角考ふる言なり。和漢古今、人気不和なれば其国滅びざるはなし、秦の 長城の堅きを遂に無用となれり。孟子に、地の利は人の和に若かずと言へり。日本も此の様人気不和を生じたる上は、如何ともすること能わず、一時乱世となら ざれば、此ままに治法はあるべからず。就いては、此方には其見込みを以て万事の取計ひすべきの時なりたり。」

7. 民間経済の豊さが国家の豊さ、強さとなる。
「古人の言に、民富めば君富むと云ふ言は、国主たる人一日も忘るべからざる言と存じ候、蔵方に一文の貯へなくとも、国中の者生計豊かにして、各家業を楽 (タノシ)むときは、臨時の入用ありとも直ちに用弁すべし。今時公義を始め諸大名にも、此の心得を以て、政事をするはあるまじく、役人ども蔵方の都合をの み計らいて、積金が何程ありと云えば富国と心得違ひ、本途の経済に心を用いるものなし。」

8. 適材適所で人を活かさなければならない。
「軽き細工人どもには其癖(ソノヘキ)あるべし。身柄の人にも酒癖はあるものなり。然れども、人は一能一藝なきはなし、此者も細工勝れたるを以て、酒癖の 失を補ふなり。其癖を以て一藝は捨てがたし、よく申聞きけたらば、其癖は直ることあるべし。一体、政事に召使ふ者も、一能一藝を以て召使ふの心得肝要な り。頭立つ人は其心得なければ、政事に頼ることは調(トトノ)はざるなり。」

9. 人物は乱世に出るものである。
「秀吉と信長とを比すれば、秀吉はるかに知慮勝れたるは素よりにして、秀吉が信長に仕えたるは、信長を仕はんとの心なりしは明なり。信長は家柄にて自然備 わるところの勢と知慮あり。秀吉は賤しきより取り上り、信長の性質をよく見抜いて奉公したり。これを考ふれば、信長の知慮に勝りたりは十倍なり。また家康 秀吉のところは性質大いに事なりて、火と水との如し。素よりその時に勢ひ、秀吉は天下に威勢を張りたる故、家康よく其勢を考えて仕えたる者なり。知慮は二 つながら品こそ替れみな能く備りたる人なり。此後も騒しき世となれば、秀吉家康の如きの人出るなるべし。人物は乱世に出るものなり。

10. 古今東西の歴史と偉人に学ぶ
「『ナポレオン』は、日本にて秀吉と比較する人物なり。『ワシントン』に比する人物、日本にはなしと思へり。『ナポレオン』は秀吉に比して材略勇智的当な り、終を全ふしたるは秀吉の方優るが如し。日本にもかれに比する人物ありしは、此小国に誇るべきことなり、『ワシントン』は智勇兼備賢人と言ふべし、世界 中比する人物は多からざるべし。此人に比する日本の人物、誰を以て的当とするや、心ある者へ文に作りて出さすべし。」

11. 勇気ある決断力のない人は役に立たない。
(外国から開国を迫られて国中が大騒ぎとなり、その対策に就いての意見について)
「一通り読みたるに、左まで良策と驚く程の説もなし。ことごとく姑息洪庵の論、あるいは偏癖、あるいは迂論にして、英断目を醒ます程の文なし。然れば人物 は少なきものなり。此の様、数カ国より通信を乞ふて、和蘭のほか皆暴威を以て迫り乞ふの際、姑息洪庵の策にては、とても日本は保たれまじく、誠に嘆かしき 次第なり。非常の果断を以て、内外の処分を変ぜざれば、保つこと難かるべし。用路に立つ人、非常の人物を登庸し、非常の措置をなすべきの時なり。勇断なき 人は事を為すこと能わざるなり。治乱共に勇断なき人は用に立たざるなり。

12. 日の丸を日本の国旗と決めよ。
「今日は阿部伊勢守に逢ひ取れり。依て、西洋各国は一般その国章を用い、船印に皆国章を掲げて我国を分明す。今日本において、ただ諸大名一家の船印はあれ ども、日本の国章なし。是は外国に耻ずべきことならずやと言ひけるに、伊勢守、實に然り、之を如何せんと云ふ。故に、日本国なる日の丸を国章とし、軍旗船 章とも御用ひありて可ならんと云ひしに、伊勢守膝をたたきて感承せり、必ず日章を日本国一般の国章とし、布告あるべきなりと云へり」

(注)
幕府は斉彬の再三再四の抗議、提案によって、1854年7月9日にやっとこれを認めました。


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● 439 映画「まぼろしの邪馬台国」について
31 Jan (Sat) 07:31 
From:岡田 次昭 南高 11期  

映画「まぼろしの邪馬台国」について

この映画は「まぼろしの邪馬台国」を上梓した宮崎康平とその妻和子の物語です。
盲目の宮崎康平を竹中直人、その妻和子を吉永小百合が演じました。いずれも好演で、この映画を見る人をして、感動させたことは間違いありません。
さて、主人公宮崎康平は、長崎県島原市生まれの郷土歴史家です。1967年(昭和42年)に発刊された「まぼろしの邪馬台国」はベストセラーとなり、学者 のレベルに留まっていた邪馬台国論を一般の人々にまで広めました。この功績により同年に創設された第1回吉川英治文化賞を受賞しました。この発刊に当たっ ては、妻の和子が口述筆記しました。故に、この賞は夫妻に対して贈られました。残念なことに、彼は「新版 まぼろしの邪馬台国」を著す途中で病に倒れ、 1980年(昭和55年)3月に亡くなりました。

映画のあらすじは次の通りです。
1956年(昭和31年)、NHK福岡において、宮崎康平とアナウンサー長浜和子とは運命の出会いをしました。和子が担当する番組「九州の歴史」に、島原 鉄道の社長であり、盲目の郷土歴史家として名のある宮崎康平がここに招かれたのでした。康平は、「邪馬台国の実像を知ることが日本人の起源を探ることであ る」とこのラジオ放送にて大きな声で力説しました。放送終了後、康平は、彼女に香水を振りかけて、島原へ来るよう強引に彼女に訴えるのでした。この康平と の出会いが、後に、和子の運命を大きく変えることになったわけです。
1ヶ月後、和子はNHKを退職して、島原鉄道の列車に乗って島原へ行き、康平を訪ねました。社長としての康平は、誰が何と言おうと自分の意見を通してしま う傲慢な男でした。赤字になるかも知れない新型バスを導入し、島原観光バスを走らせるという新事業も例外ではありませんでした。和子と再会した康平は、直 ちにバスガール教育部長に指名して、他の重役たちを驚かせました。そして、和子は真新しい制服姿のバスガールの卵たちに歩き方、化粧の仕方、子供やお年寄 りとの接し方を指導することになりました。最初は、観光客も少なく赤字続きでしたが、まもなくバス事業が成功し、鉄道経営も少しずつ上向きになりかけて、 順調に事業が進むものと鉄道関係者の誰もが思っておりました。ところが、急な集中豪雨が島原を襲い、線路を調べに出かけた康平が行方不明になりました。暴 風雨の中、和子は寸断された線路沿いに康平を探しに行き、なんとか康平を無事に見つけることができました。康平の意識が戻ると「わが郷土、島原は遺跡の上 にできた町」と神がかりなことを言い出しました。川に流されまいと必死で掴まった土器によって、康平の命は救われたのでした。その土器は、調査の結果、ど うやら縄文時代中期のものであることが判明しました。
康平の命令で鉄道の復旧作業が始まると、次々と土器が発掘されていきました。康平が本社に戻ってきますと、会議室に島原鉄道の重役たちが集まっておりました。緊急の役員会が開催され、宮崎康平の社長解任決議が為されました。
康平の解任に伴い、島原観光バスは廃止され、それに伴いバスガールも解雇されました。
それ故、和子は島原にいる必要性がなくなりました。
荷物を纏めて島原を発つ日、島原駅で和子を待っていたのは、幼い男の子と乳飲み子をかかえた康平でした。康平は和子に対して、「俺の女房になってくれ」と 懇願するのでした。康平の妻は、子供二人を残し、かつ籍をそのままにして家出をしておりました。この窮状に同情して、和子は康平と同居することになりまし た。但し、籍を入れることはできず、いわば内縁の妻の立場でした。
康平の目的は、「まぼろしの邪馬台国」の場所をこの九州において探すことにありました。和子は、目の見えない康平の代わりに、魏志倭人伝、日本書紀、古事 記を読んで聞かせ、康平がそれらを聞いて目的の場所を探すという、文字通りの手探りの共同作業でした。康平の目は見えないけれども、上記の内容を諳んじて おり、和子が読み方を間違えますと、康平が厳しく訂正する場面もありました。
しかしながら、書物からでは邪馬台国の全貌を明らかにすることができません。そこで、和子は「私があなたの目になります」と書物に書かれた場所に行くこと を康平に提案するのでした。実際に歩いた地形が和子の作った立体地図に徐々に記されて、魏志倭人伝の国名と現代の地形とが除々に重なり合っていきました。 この間、会社社長を解任された康平は、働きもせず、邪馬台国の研究に没頭して無収入となりましたので、康平の家族は、どん底の生活を強いられることになり ました。和子は元NHKの上司に依頼して、テープレコーダーとテープを無償で譲り受けたり、銀行の頭取から個人的に資金援助を受けて、子供二人と康平の面 倒を見る涙ぐましい苦労を重ねました。
時には、康平から無理難題を押しつけられて、和子も逆ギレして、卵を康平に投げつけました。また、当分の間、一言も口を聞きませんでした。
その後、多くの年月をかけて遂に「まぼろしの邪馬台国」をようやく上梓することができました。この書物の評判は邪馬台国ブームに火をつけました。この出版によって、夫婦で第1回吉川英治文化賞を受賞することになりました。
授賞式の後、息子は、飲み屋をやっている生みの親の所に行き、離婚届を貰ってきて、父親の康平に報告したところ、余計なことをしたという理由で息子を殴りつけました。本当は嬉しかったに違いありません。
康平は、涙ながらに、「明日、離婚届と婚姻届を出す」と宣言するのでした。
こうして、和子は、正式に康平の妻となりました。
この受賞によって、康平は島原の有名人となりました。島原の方たちは康平を持ち上げて、態度を一変したのでした。
康平は、引き続き九州各地を訪れて邪馬台国の研究に没頭しました。ところが、1980年(昭和55年)3月6日、発掘中に脳出血を起こし、帰らぬ人となりました。享年62歳でした。
映画の最後のところは、康平の葬式の場面です。葬式の最中に、康平の前妻である朋子が現れ、和子に対して涙溢れる感謝の言葉を投げかけて、幕となりました。余貴美子の熱演は実に感動する場面でした。
更に、感動したところは、次の場面です。
映画の後半のところで、当時の邪馬台国の模様が描かれています。その中で、吉永小百合は卑弥呼を演じました。天女のような素敵な衣装を着て現れた彼女は本当に幻想的でした。
彼女は、日本の中年男性が憧れる女性の第一人者であると言っても過言ではありません。
最近の彼女の主演作品は「北の零年」と「母べえ」です。いずれも傑作作品で、私は欠かさず見ております。

私は、久しぶりに素晴らしい映画に出会えて、嬉しく思いました。
これは必見の映画と私は確信しております。

(ご参考)
役名   俳優・女優      役柄
宮崎和子  吉永 小百合   宮崎康平の妻
宮崎康平  竹中 直人    まぼろしの邪馬台国の著者
戸田亮吉  石橋 連司    島原鉄道副社長 のち社長
江坂    江守 徹     有明銀行頭取
吉岡静香  黒谷 友香    花屋
佐野朋子  余  貴美子   宮崎康平の前妻
古賀    大杉 漣     ラジオディレクター
克江    由紀 さおり   島月旅館のおかみ

(了)

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● 438 寺田寅彦著「柿の種」について
29 Jan (Thu) 01:51 
From:岡田 次昭 南高 11期  

昨年の12月9日、私は、渋谷の文教堂にてこの書物「柿の種」に出会いました。
短い文章で味わい深い言葉に溢れておりましたので、早速これを購入し纏めました。
彼は、俳句雑誌「渋柿」の巻頭第一ページに、「無題」という題で、投稿しております。(大正9年頃の話です。)
この書物は、この短い即興的漫筆(マンピツ)を「柿の種」として集めたものです。
(漫筆とは、あれこれ思いつくままに書くこと、また、そうして書いた文、随筆を意味します。)
彼は「この書の読者への願いは、なるべく心の忙(セワ)しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んで貰いたい」と自序において述べております。味わい深い176篇が収録されております。



寺田寅彦著「柿の種」について
                   
寺田寅彦は、1878年(明治11年)11月28日、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に生まれ、寅年寅の日であったことから、寅彦と命名されました。
1896年(明治29年)熊本の第五高等学校に入学し、当時英語教師であった夏目漱石、物理学の教師田丸卓郎と出会って、両者から大きな影響を受けて、科学と文学を志しました。
1899年(明治32年)東京帝国大学に入学し、1903年同大学実験物理学科を卒業しました。以後、同大学に残り、大学院、講師、助教授を経て、 1916年(大正5年)に物理学の教授に就任しました。その後、彼は、理化学研究所研究員、帝国学士院会員を務め、学者としての多忙な人生を送りました。
その彼も、病魔には勝てず、1935年(昭和10年)12月31日、転移性骨腫瘍により57歳でこの世を去りました。
彼は、理系でありながら、文学など文系の事象に造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残しております。
「天才は忘れた頃にやってくる」という彼の言葉はあまりにも有名です。
ところが、著書の中にはその文言はないと言われております。口頭で話したことが記録として残ったのでしょうか。
さて、この「柿の種」は、日常の中の不思議を研究した物理学者で随筆の名手としても知られる寺田寅彦の短編集です。
彼は、実にユニークで柔軟な発想の持ち主です。
例えば、次のような物の見方は私には到底できません。「鳥や魚のように、自分の眼が頭の両側についていて、右の眼で見る景色と、左の眼で見る景色と別々に まるでちがっていたら、この世界がどんなに見えるか、そうしてわれわれの世界観と人生観がどうなるか。……いくら骨を折って考えてみても、こればかりは想 像がつかない。鳥や魚になってしまわなければこれはわからない。」
(04に記載)
なお、この書物の発行所は岩波書店です。1996年4月1日に初版が発行されております。2007年5月には、既に21刷発行されております。これを見てもお分かりの通り、かなりの方がこれを愛読していると推察されます。

この書物を一節づつ読んでも十分楽しめますし、役に立ちます。それに、これを読んでおりますと、大正から昭和にかけての世相が十分伝わってきます。

注釈を入れて、330ページもあります。すべてを紹介することはできませんので、その一部を下記に記載しておきます。ただし、1ページ以上に亘る長文は省略しました。
全編に亘り味わい深いかつ心を揺さぶる言葉が満ち溢れております。興味をお持ちの方は、是非ともこれを購入して一読してください。

(原文のまま)

01
脚を切断してしまった人が、時々、なくなっている足の先のかゆみや痛みを感じることがあるそうである。
総入れ歯をした人が、どうかすると、その歯がずきずきうずくように感じることもあるそうである。
こういう話を聞きながら、私はふと、出家遁世の人の心を想いみた。
生命のある限り、世を捨てるということは、とてもできそうに思われない。

02
生来の盲人は眼の用を知らない。始めから眼がないのだから。眼明きは眼の用を知らない。生まれた時から眼を持っているのだから。

03
眼はいつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。

04
鳥や魚のように、自分の眼が頭の両側についていて、右の眼で見る景色と、左の眼で見る景色と別々にまるでちがっていたら、この世界がどんなに見えるか、そ うしてわれわれの世界観と人生観がとうなるか。……いくら骨を折って考えてみても、こればかりは想像がつかない。鳥や魚になってしまわなければこれはわか らない。

05
「ダンテはいつまでも大詩人として尊敬されるだろう。……だれも読む人から」と、意地の悪いヴォルテーアが言った。ゴーホやゴーガンもいつまでも崇拝されるだろう。……だれにも彼らの絵がわかるはずがないからである。

06
寝入りぎわの夢現(ユメウツツ)の境に、眼の前に長い梯子のようなものが現れる。 梯子の下に自分がいて、これから登ろうとして見上げているのか、それとも、梯子の上にいて、これから降りようとしているのか、どう考えても分からない。

07
猫が居眠りをしているということを、つい先ごろ発見した。その様子が人間の居眠りのさまに実によく似ている。人間はいくら年を取っても、やはり時々は何かしら発見をする機会はあるものと見える。これだけは心強いことである。

08
新しい帽子を買ってうれしがっている人があるかと想うと、また一方では、古いよごれた帽子をかぶってうれしがっている人がいる。

09
平和会議の結果として、ドイツでは、発動機を使った飛行機の使用製作を制限された。すると、ドイツ人はすぐに、発動機なしで、もちろん水素なども使用せ ず、ただ風の弛張(シチョウ)と上昇気流を利用するだけで上空を翔けり歩く研究を始めた。最近のレコードとしては約二十分も、らくらくと空中を翔けり回っ た男がある。飛んだ距離は、二里近くであった。詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれるのである。

10
無地の鶯茶色のネクタイを捜して歩いたがなかなか見つからない。東京という所も存外不便な所である。このごろ石油ランプを探し歩いている。神田や銀座はも ちろん、板橋界隈も探したが、座敷用のランプは見つからない。東京という所は存外不便な所である。東京市民がみんな石油ランプを要求するような時期が、い つかはまためぐって来そうに思われてしかたがない。
(注) (『柿の種』への追記)大正12年7月1日発行の「渋柿」にこれが掲載されてから、ちょうど2ヶ月後に関東大震災が起こって、東京じゅうの電灯が役に立たなくなった。これも不思議な回りあわせであった。

11
震災後、久しぶりで銀座を歩いてみた。いつのまにかバラックが軒を並べて、歳暮の店飾りをしている。東側の人道には、以前のようにいろいろの露店が並び、 西側にはやはり、新年用の盆栽を並べた葦簀張り(ヨシズバリ)も出ている。歩きながら、店々に並べられた商品だけに注目して見ていると、地震前と同じ 銀座のような気もする。往来の人を見てもそうである。してみると、銀座というものの「内容」は、つまりただ商品と往来の人だけであって、ほかには何もな かったということになる。それとも地震前の銀座が、やはり一種のバラック街に過ぎなかったということになるのかもしれない。

12
夢の世界の可能性は、現実の世界の可能性の延長である。どれほどに有りうべからざる事と思われるような夢中の事象でも、よくよく考えてみると、それはただ 至極平凡な可能性をほんの少しばかり変形しただけのものである。してみると、事によると、夢の中で可能なあらゆる事が、人間百万年の未来には、みんな現実 の可能性の中にはいって来るかもしれない。もしそうだとすると、その百万年後の人たちの見る夢はどんなものであるか。それは現在のわれわれの想像を超越し たものであるに相違ない。

13
大道で手品をやっているところを、そのうしろの家の二階から見下ろしていると、あんまり品玉がよく見え過ぎて、ばからしくて見ていられないそうである。感 心して見ている人たちのほうが不思議に見えるそうである。それもそのはずである。手品というものが、本来、背後から見下ろす人のためにできた芸当ではない のだから。

14
「二階の欄干で、雪の降るのを見ていると、自分の身体が、二階といっしょに、だんだん空中へ上がって行くような気がする」と、今年十二になる女の子がい う。こういう子供の頭の中には、きっとおとなの知らない詩の世界があるだろうと思う。しかしまた、こういう種類の子供には、どこか病弱なところがあるので はないかという気がする。

15
古典的物理学の自然観はすべての現象を広義における物質とその運動との二つの観念によって表現するものである。しかし、物資をはなれて運動はなく、運動を 離れて物資は存在しないのである。自分の近ごろ学んだ芭蕉のいわゆる「不易流行」の説には、おのずからこれに相通ずるものがある。

16
S.H.Wainwrightという学者が、和歌や俳句の美を紹介した論文の中に引用されている俳句の英訳を、俳句の事を何も知らない英学者のつもりになって、もう一遍日本語にしかもなるべく英語に忠実に翻訳してみると、こんな事になる。
「いかに速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川に」
(五月雨を 集めて早し 最上川)
「大波は巻きつつ寄せる、そうして銀河は、佐渡島へ横切って延びに拡がる」
(荒海や 佐渡に横たふ 天河)
このごろ、よんどころない必要から、リグヴェーダの中の一章句と称するもののドイツ訳を、ちょうどこんな調子で邦語に翻訳しなければならなかった。そうし て実ははなはだ心もとない思いをしていた。今、右の俳句の英訳の再翻訳という一つの「実験」をやった結果を見て、滑稽を感じると同時に、いくらか肩の軽く なるのを覚えた。
(注) リグヴェーダ(Rgveda)とは、サンスクリット語で書かれた古代インドの聖典

17
いろいろな国語の初歩の読本には、その国々特有の色と香がきわめて濃厚に出ている。ナショナルリーダーを教わった時に、幼い頭に描かれた異国の風物は、英 米のそれであった。ブーフハイム(Buchheim ドイツ語の教科書)を手にした時には、また別の国の自然と、人と、その歴史が、新しい視野を展開した。ロシアの読本をのぞくと、たちまちにして自分がロシ アの子供に生まれ変わり、ラテンの初歩をかじると、二千年前のローマ市民の子供になり、蝋石盤をかかえて学校へ通うようになる。おとなの読み物では、決し て、これほど濃厚な国々に特有な雰囲気は感ぜられないような気がする。翻訳というものもある程度までは可能である。
しかし、初歩からの読本の与える不思議な雰囲気だけは、全然翻訳のできないものである。

18
美人と言えば女に限るようである。美醜は男をスペシファイ(明らかに示す)する属性にならぬと見える。甘い辛いが絵の具の区別に役立たぬように。

19
睡蓮の花は昔から知っている。しかし、この花が朝開いて午後に眠るということは、今年自分の家でつくってみて始めて知った。睡蓮という名の所由がやつと分 かったのである。水蓮などという当て字をかく人のあるのを見ると、これは自分だけの迂闊でもないらしい。人間ののんきさかげんがこんなことからもわかる。 しかし、また人間の世智辛さがこれでわかる、とも言われるであろう。

20
「陸相官邸にて割腹」という大きな見出しの新聞記事がある。陸相の官邸でだれかが割腹したのである。日本語の不完全を巧に利用したジャーナリズムのトリックである。

21
犬吠埼の茶店の主人の話だそうである。三十年来の経験で、自殺者心中者はたいてい様子でわかる。思案にくれて懊悩しているようなのはかえって死なない。写 真でも撮らせたり、ひどく元気よくはしゃいでいるのが怪しいということである。いったい死ぬほどに意気消沈したものなら首くくりの縄を懸けるさえ難儀な気 がしそうである。それをわざわざ遠くに出かけて、しかも三原や浅間に山登りをする元気があるのは不思議なような気がする。こういう種類の自殺者は、悲観の ためではなくてみんな興奮のために死ぬるのだろうと思われる。

22
学校を卒業したばかりの秀才が先生になって講義をすると、とかく講義がむつかしくなりやすい。これはいろいろの理由があるが、一つには自分の歩いて来た遠 い道の遠かったことを忘れるというせいもあるらしい。若い学者が研究論文を書くと、とかくひとり合点で説明を省略し過ぎて、人が読むとわかりにくいものに してしまう場合が多い。これもいろいろの理由があるが、一つには自分がはじめてはいった社会の先進者の頭の水準を高く見積もり過ぎるためもあるらしい。

23
自分の欠点を相当よく知っている人はあるが、自分のほんとうの美点を知っている人はめったにないようである。欠点は自覚することによって改善されるが、美点は自覚することによってそこなわれ亡われる(ウシナワレル)せいではないかと思われる。

24
「死刑囚」
友人の生理学者が見せてくれた組織学(ヒストロギー)の教科書の中にいろいろな人体の部分の顕微鏡写真がたくさん掲載されている。その図の下にある説明 を読んで行くと「ある若き死刑囚の○○」といったようなのがかなり多数にある。虎や豹は死してその毛皮をとどめる。そうして人間の生活になにがしかの貢献 をすると同時に自己がかつてこの世に生存していたという実証を残す。この世に活かしておけないという理由で処刑された人間の身体の一局部のきわめて微細な 顕微鏡標本は生理学や医学の教科書に採録されて世界の学徒を教育する。くだらない人間や、あるいはきわめていけない人間の書いたものでも後世を益すること はある。たとえそれがどんなうそでも詐り(イツワリ)でも、それでもやはり人間のうそや詐りの「組織」を研究するものの研究資料としての標本になりうる。 ただしそれが「詐らざるうそ」「腹から出たうそ」でないと困るかもしれない。とは言うものの、「佯り(イツワリ)のうそ」でも結局それがほんとうに活きて いた人間の所産である限り、やはりそれはそれとしての標本として役立つかもしれない。全く役に立たない人間になる、ということほどむつかしい事はないかも しれない。

25
血液の化学成分は驚くべき精密さをもって恒同に保たれている。ちょっと労働でもして血液中のイオン濃度がわずかに一億分一だけ増すとすぐ呼吸が忙しくなっ て血液中の炭酸ガスを洗浄させる。人間の社会もこのくらい有機的になって、全系統の生理に有害なものを自動的に駆逐するような機巧が具わっているといいと 思う。現在でもある程度まではすでにそうなっているかもしれない。しかしこの調整作用を阻害するような病気があまりに多く、それに抵抗力があまりに弱いの ではないかと思われる。

26
日本は地震国だと言って悲観する人もある。しかし、いわゆる地震国でない国にも、まれにはなかなかの大地震の起こることもある。そうして、日本ではとても 見られないような大仕掛けの大地震が起こることもある。1906年のサンフランシスコ地震の時に生じた断層線の長さは450キロメートルに達した。 1920年のシナ甘粛省の地震には十万人の死者を出した。考えてみると、日本のような国では、少しずつ、なしくずしに小仕掛けの地震を連発しているが、現 在までのところで安全のように思われている他の国では、存外三千年に一度か、想像もできないような大地震が一度に襲って来て、一国が全滅する事が起こりは しないか。これを過去の事例に徴するためには、人間の歴史はあまりに短い。その三千年目か、五千年目は明日にも来るかもしれない。その時には、その国の 人々は、地震国日本をうらやむかもしれない。

(了)

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● 437 五木寛之氏著「遊行(ユギョウ)の門」について
27 Jan (Tue) 08:03 
From:岡田 次昭 南高 11期  

五木寛之氏著「遊行(ユギョウ)の門」について

五木寛之氏は「遊行(ユギョウ)の門」の前に「林住期(リンジュウキ)」を上梓しております。
林住期(リンジュウキ)」の要旨は次の通りです。
気象の移り変わりは,春・夏・秋・冬で表します。
方角は,東・西・南・北に分けられます。
ものごとの進み具合を起・承・転・結といいます。
四分法というのは,いかにも自然な区切りです。
古代インドでは「四住期」という考え方が生まれ,そして人々の間に広がりま
した。
紀元前二世紀から紀元後二世紀あたりのこととされております。
これは人生を四つの時期に区切って,それぞれの生き方を示唆する興味深い思
想です。
1.学生期(ガクショウキ) 青少年時代、心身を鍛え、学習し、体験を積む期。
2.家住期(カジユウキ) 就職し、結婚し、家庭を作り、子どもを育てる期。
3.林住期(リンジュウキ) 50 歳からの25 年間の豊かな期。
4.遊行期(ユギョウキ) 76 歳から死に至る期。(白秋、玄冬の期)

林住期は、職業・家庭・世間の付き合いなどの「くびき」から自由になって、じっくりと己の人生を振り返ってみる時期で人生の黄金期であると彼は語っております。

その後、彼は「遊行(ユギョウ)の門」を上梓しました。これは、第四の遊行期(ユギョウキ) すなわち、76 歳から死に至る期について書かれております。
この書物の要旨は次の通りです。
遊行期とは、人生の最後のしめくくりである死への道行きであると共に、幼い子供の心に還っていくなつかしい季節でもある。旅とは行きっぱなしのことではな い。旅立った者は帰るのだ。登山とは山に登ることだけではない。頂上をきわめたあと、人は必ず下山してこそ登山という行為が完結するのだ。
この世に生を受けた人間は、ちゃんと世を去ってこそ人生である。その締めくくりが遊行期であり、人生においてもっとも重要な季節といえるだろう。
遊びにでた者は、いつか帰らなければならない。「帰る」と書くより「還る」と書くほうが実感がある。ふたたび戻るのだ。
中国の発想にならえば、遊行期はさしずめ「玄冬」にあたる季節である。玄冬とは、ただ薄暗い淋しい冬枯れの季節ではない。玄とは、玄米の玄であり、くろい という意味と同時に、幽玄の世界への回帰を暗示する。私たちは生まれ、育ち、働き、そして休んだあとに還るのだ。どこへ?自分が生み出された玄の世界へ還 るのだ。道教でいう「玄牝(ゲンピン)の門」をくぐり、ふたたび生命の根元に戻っていく。そう考えると、老化という現象も自ずと納得がいく。私たち人 間は、赤ん坊の頃からすべてを学び、記憶し、知識を身につけて成長する。身体的にも強く、機敏になっていく。遊行期とは、そこから戻っていく時期なのだ。
老いていく自分は、子供に還っていく人間の自然のすがたでなくてなんであろうか。もの忘れがひどくなることを嘆くことはない。成長してくるなかで身につけ た知識と記憶を、少しずつ世間に返していくのだ。子供に還り、赤ん坊に還り、やがて誕生した場所へ還る。それを死というのである。
「遊行」とは、死に場所を求めて、あてもなくさまよう季節ではない。子供のころに還って遊び歩く時なのである。
すべての人が、いずれ「林住期」を終えて「遊行」の季節に入る。「行」は「業」ではない。「修業」は技術であり、職業訓練であるが、「修行」は見えない大 事なものを捜す旅である。「遊び」も「行」だと思いたい。人は遊行の門をくぐって出発し、ふたたび遊行の門をくぐって還る。人の一生とは、そういうものな のではあるまいか。』と彼は書いております。
生きとし生きる物は必ず滅ぶことは周知の事実です。いずれ、私たちは林住期から遊行期に入ることになります。今からこれを自覚して、人生を歩むことが今後に課せられた大きな命題と考えます。
それでは、この書物をすべて紹介することはできません。そこで、この年になって実感できる文章のみを皆さんに紹介します。
私は著者の言に従い『とりあえず「いま」。そして「きょう一日」を生きる。』
ことを今から実践していきます。
この書物に興味をお持ちの方は、購入してお読みください。
発行所  株式会社徳間書店
価格   1,155円

                  記

§きょう一日の命と思う
生きるという事は、薄氷をふんで冬の川を渡るようなものだと、しみじみ思う。
少年の頃、北朝鮮の冬の川でいつもスケートをして遊んでいた。氷が張り始めの頃は、へたをすると氷が破れて寒流のなかに落ち込みかねない。また春になって 氷がゆるみはじめると、あちこちでピッという割目がはしる音が聞こえてくる。大人たちからは危ないからと禁止されていたスケートだったが、遊びに夢中な子 供の気持ちはおさえることができなかった。
「死は前よりきたらず」と、古人は言った。気がついた時は、既に後に迫っている、と。ポンポンと肩を叩かれて振り返ると、そこに死神の笑顔があるのだ。こ の言葉には、妙なリアリティーがある。私たちは「あと何年生きるだろう」と、予想している。はるか前方に、死が遠くかすんで見えるような気で生きている。 しかし、足音を立てず、静かに背後に忍び寄ってきているのが「死」というものである。他人の死を話題にすることはできても、人は自分の死を具体的にイメー ジすることは難しい。5年先、10年先、20年先まで、自分は今のまま生きているつもりで暮らしている。私もかつてはそうだった。少年のころは、戦争とい う大きな制約があった。当時は、日々、戦争で死ぬことを想像しながら暮らしてきた。しかし、戦後の平和の中で、いつのまにかその実感は失われてしまった。 ときどき過労の果ての幻想として死が訪れてくるだけだった。しかし、よくよく振り返ってみると、死は身近にある現実である。親しい友人、知人の死が、それ を一瞬だけ思い出させてくれる。60歳を過ぎた頃から、少しずつ自分の死というものが実感できるようになってきた。死の訓練、といえばおおげさだが、つと めて自分の死を強く意識しようと努力してきた成果だろうか。
それによってなにが変わったか。まず、よく眠れるようになった。きょう一日、とにかく生きることができて幸せだった、と何かに感謝する気持ちが湧いてくる のである。眠れなければ起きて本でも読んでいればいい。明日はないと思えばいいのだ。とりあえず「いま」を生きたいように生きる。翌日、どんなに大事なこ とがあろうと、次の日まで生きるかどうか分からないではないか。とりあえず「いま」。そして「きょう一日」を生きる。そう思えるようになってきたのだ。
(了)

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● 436 被害者参加制度について
26 Jan (Mon) 09:57 
From:岡田 次昭 南高 11期  

今回は、被害者参加制度について述べることにします。
昨年の12月、刑事訴訟法の改正に伴い「被害者参加制度」が新設されました。
1月23日、その第一号が東京地裁の二つの法廷で実施されました。
この日は、被害者本人や遺族が裁判に参加できた記念すべき日でした。
今までは、被害者本人や遺族は傍聴席において、裁判の行方を見守るしか方法がありませんでした。
従来、被害者本人や遺族は証人になって心情を訴えることができましたが、
被告と向かい合ってじかに話をすることは許されませんでした。
裁判所も、判決に当たりその心情を参考程度に留めるに過ぎませんでした。

今回は、その心情を裁判所において被告と直接話ができるようになったのです。
刑事裁判において、今までは、被告には弁護士が付いておりました。
これからは検事側にも被害者本人や遺族が座ることになります。
検察官の論告・求刑の後、被害者本人や遺族は、
意見陳述と量刑についても意見を述べることができるようになったのです。
国民は、これを待っていたのです。
被害者本人や遺族が、刑事裁判に参加することによって、
その心情を裁判官に分かって貰えて、量刑に加味されることは、一歩前進したということです。
これを契機として被害者参加制度が定着することを私は祈念します。
これも5月から実施される裁判員制度を見据えての裁判所の配慮と考えます。

なお「被告が、事故後に前触れなく遺族のもとを訪れたとき、焼香を断られると、
遺族に向かって(2時間もかけて来たのに)と口にしたことも明かされた。」との部分は被害者の遺族を逆撫でした言葉です。誠意が感じられません。実に不愉快です。

1月24日、インターネットにてその模様が報道されましたので、下記に記載しておきます。


                  記

犯罪の被害者本人や遺族が同じ法廷の中で被告と向き合い、じかに言葉を交わす。

日本の刑事裁判ではかつてない光景が23日、東京地裁の二つの法廷で展開された。

ひとつは恐喝未遂・傷害事件。もうひとつは交通死亡事故をめぐる事件だ。

交通死亡事故の法廷の様子は――。

自動車運転過失致死罪に問われている男性被告(66)の初公判。

昨年8月、東京都内でトラックで右折するとき、

対向車線のオートバイと衝突して男性(当時34)を死なせたとして起訴された。

被害者参加の裁判では、被害者・遺族は検察官側に座る。

検察官の横には、男性の兄(35)と付き添いの弁護士が並び、男性の妻(34)がそ

の後列に座った。

被告が罪状認否で起訴事実を認めた後、検察側が冒頭陳述と証拠の説明をした。

被告が、事故後に前触れなく遺族のもとを訪れたとき、焼香を断られると、

遺族に向かって「2時間もかけて来たのに」と口にしたことも明かされた。

被害者・遺族には被告人質問が認められる。

机に両ひじをついて顔を伏せ、怒りをこらえていた様子の兄が、

検察官との短い打ち合わせの後、質問に立った。

 兄「なぜ事前連絡をしなかったのでしょうか」

 被告「断られちゃうと思いまして」

 兄「現場で手を合わせたことはありますか」

 被告「毎日、車で通っております。赤信号だと止まりますから必ず気持ちでやってお

ります」

 兄は、被告の反省や謝罪の姿勢が本物かをただした。

 兄「逆に青信号だったらしないんですか」

 被告「頭下げる程度で」

 兄「あなたが考える誠意とは何なのでしょうか」

 被告「んー、ただお線香あげさせて頂いて。謝るしかないです」

 検察側は論告で「遺族が受けた精神的衝撃は癒やされることがない」と訴え、

 禁固1年6カ月を求刑した。

 その後、妻が立ち上がり、被害者・遺族による量刑についての意見を述べ始めた。

「前方不注意などという簡単な言葉で終わらせたくない。殺人だと思っています」

 涙を流しながら、妻は続けた。

「最後のお別れの時、『パパと離れたくないよ』と泣き叫んだ5歳の娘の気持ちがあな

たに分かりますか?」

非難の言葉を連ねた後、妻は、執行猶予にせずに実刑とするよう求めた。

裁判長に「裁判に参加することで発言できることは意義のあることだと思いますが、

この思いを反映して頂けることを望みます」と訴えた。

判決は2月20日。公判後、記者会見した兄は

「 相手が誠意を持っているかは、被害者側が一番分かる。

遺族本人が感情や気持ちを言うことで、加害者や裁判官に伝わった」と参加の意義を語

った。

(了)

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● 435 映画「私は貝になりたい」について
26 Jan (Mon) 09:19 
From:岡田 次昭 南高 11期  

私は、「松山南第11期メール通信」の編集長として75名の同期生に対し皆さんからの投稿文を配信しております。
第11期生への配信に留まらず、参考になる投稿文はこの「すえひろ」の活性化に少しでも役立つと考えましたので、これから順次同窓生の方に紹介していきます。
さて、第一弾として、昨年の12月に私は映画「わたしは貝になりたい」を見ました。
戦争のむなしさと涙をさそう名作と私は考えます。

                   記

映画「私は貝になりたい」について

昭和33年(1958年)10月30日、故フランキー堺主演にて「私は貝になりたい」がテレビ放映されました。私は、当時高校2年生で、しかも家にはテレ ビか置かれていなかったと思われますので、このテレビドラマを見た記憶はありません。このドラマは、二等兵として戦争に巻き込まれた市民の悲劇と切なさを 描き、当時としては珍しく、これを見た人たちを感動の涙で包んだという名作ということで、いまだに語り継がれております。
それから50年が経過して、待望のこの映画が完成しました。
この映画は、実在の人物であるBC級戦犯加藤哲太郎著「狂える戦犯死刑囚」を参考にしております。従いまして、この映画の登場人物は、ほとんど架空の人物であると考えられます。
主人公を演じた中居正広は、18日間もかけて、この映画の宣伝に日本全国を駆け回ったということです。彼の行動力に脱帽です。
さて、この映画の主人公は、理髪店を経営している清水豊松を中居正広及びその妻房江を仲間由紀恵が演じています。
実に素晴らしい夫婦愛の物語で、お二人の好演と相俟って、私は、感動すると共に、涙に噎び(ムセビ)ました。
あらすじは、次の通りです。
昭和19年、戦況はますます悪化して、日本軍が各地で玉砕している時に、清水豊松(以下豊松と記載します)と房江は、土佐にある汐見岬の漁業町(架空の場所)において、小さな理髪店を経営しておりました。
当時は、すべて配給制にて、お米はもはや手に入らず、毎日「すいとん」を食べて窮乏生活を強いられておりました。
それでも、貧しいながらも、息子の健一と3人で団欒する様子は、家族愛に溢れておりました。
妻や子供と楽しい会話を弾ませていた時に、町役場の吏員である竹内(武田鉄矢)が、豊松に赤紙(召集令状)を届けに来ます。来るべきものが遂に来たわけです。豊松は、入隊前に頭の髪を綺麗にしておくべきと考え、妻に自分の髪を刈らせて坊主になります。
豊松が配属されたのは、外地ではなく、本土防衛のために編成された中部軍の部隊でした。ここでは、上官の立石上等兵(六平直政)によって、豊松は滝田と共に、毎日いびられ、生傷が絶えませんでした。
訓練の最中に、アメリカ軍の長距離爆撃機であるB29が1機撃墜されました。部隊の司令官である矢野中将(石坂浩二)はこれを耳にしますと、「払暁を待 ち、捜索隊を大北山に派遣し、搭乗員を捕縛、直ちに……と(いいかけ しばらく間を置いて)直ちに適切な処置を行え!」と命令します。
この「直ちに適切な処置」という言葉が後ほど大きな悲劇を生むことになります。
その捕虜捜しに豊松の属する部隊が山狩りの命令を受けます。大北山にて、3名の米軍搭乗員が息も絶え絶えになって発見され、その内の1名は間もなく息を引き取りました。
日高大尉は「士気高揚の為に、初年兵教育を実施する」と声高らかに叫び、第三斑より2名選抜するように命令します。大尉にとっては、「適切な処理」とは、捕虜殺害の意味と受け取ったわけです。
立石上等兵は、この命令を受けて、一番タルンでいる豊松と滝田を指名します。最初の突撃の時、2人は、恐怖の余り、捕虜の近くまで行って立ち止まってしまいます。そこでまた上等兵にぶん殴られて、しかも交代させられることはありませんでした。
彼ら2名は再び捕虜に対して、銃剣を持ち、大声で叫びながら突撃を敢行しました。
ここで、場面はがらりと変わり、戦後の荒廃が映し出されます。
ある日のこと、豊松は、土佐の清水理髪店で散髪をしながら、お客と雑談しておりました。丁度その時、2名のMPを載せたジープが理髪店の前で止まりまし た。背広の男は、県の警察部の者と名乗り、「貴男が清水豊松さんですね」と確認し、豊松が「そうですが……」と答えるや否や、「戦犯容疑で逮捕します」と 言って、いきなり手錠を豊松の両手に嵌め、ジープにて連れ去りました。
ここから豊松の苦悩が始まりました。
豊松は他の戦犯たちと共に、巣鴨プリズンに収監されました。市ヶ谷に軍事法廷が設置されたものの、A級戦犯の裁判に時間を取られて、手が一杯となり、ここでBC級戦犯を裁く余地がありませんでした。そこで、豊松たちは、バスに乗せられ、巣鴨から横浜まで護送されました。
軍事裁判において、判事と検事は、豊松に対して英語で質問します。ところが、通訳が的確な翻訳しませんので、豊松の言葉が相手に通じません。
次のようなやり取りが行われて、豊松の言葉が判事たちに理解されることはありませんでした。
判事は、「命令を受けたのであれば、命令書があるはずだ」とすべてアメリカを基準にして豊松を責めます。当時の日本軍は、いちいち書類を作成して命令を下 すわけではなく、口頭命令が主流を占めておりました。こういう慣例はアメリカ軍には到底理解されることはありません。それに、「上官の命令は天皇陛下の命 令です。絶対に服従しなければなりません」と豊松が話しますと、「では被告は天皇に直接会ってその命令を受けたのか」と日本の事情に疎い検事は豊松を怒鳴 りつけました。
かくして、アメリカ側の一方的な独断によって、被告たちに判決が下されました。
矢野中将は絞首刑、当時大隊長であった尾上中佐は絞首刑、立石上等兵は重労働20年と読み上げられました。
次に、元二等兵の豊松が裁判官の前に立ちました。「被告は、搭乗員捕虜を不法かつ故意に処刑し殺害した。よって、絞首刑に処す」と判決が下されました。
その後、巣鴨プリズンに死刑囚たちが収監され、豊松は大西という名の死刑囚と同室になります。大西(草塙・は、「処刑される者は、木曜日の朝、呼び出さ れ、ブルー地区へ変わり、真夜中つまり金曜日の午前零時に刑が執行されます」と豊松に話します。その大西も翌日、呼び出され、刑場に連行されていきまし た。
しばらくして、矢野中将が豊松に近づいて来ます。最初は、会うことを拒んでいた豊松でしたが、矢野中将は「俺の不注意から、君たちを巻き添えにして本当に すまないと思っている。俺も再審書を出したよ。しかし、自分の罪を軽くして貰うのではなく、罪は指令官たるこの自分一人にある」と豊松に語ったことから、 豊松は矢野中将の人柄に折れて、中将の頭を散髪したり、話の相手をするようになりました。
そして、遂に矢野中将が処刑されることになりました。彼は最後の言葉として次のように語るのでした。「この事件は指令官たる自分のあやふやな命令が原因 で、責任者は自分一人である。他の関係者に対する罪科は、形式的、かつ、一方的であり、あまりにも過酷すぎる。大北山事件は自分の絞首刑執行により終結す るのだから、他の関係者は無罪に……いや、もし、手続き上それが困難なら、最低限でも罪一等を減じ、死刑の者は有期、有期刑の者は、即無罪とすべきあ る。」
こう言い残すと、彼は自ら歩き出し、十三段階を上がり始めました。彼が中央の処刑台に立ちますと、刑の執行者が黒い布袋を頭から被せ、もう一人の者が太い ロープを彼の首に巻きつけました。指揮官が時計を見て、時間を確認し、手を上げ振り下ろしますと、執行官が死刑台のレバーを引き下ろしました。踏み板がは ずれて、首にロープを巻かれた矢野中将は、奈落の底へ落下して、絶命しました。この場面は、本当に残酷なシーンでした。一生、私の脳裏に残ることは間違い ありません。
さて、小宮教誨師は、妻の房江に手紙を出し、豊松の現状を報告します。当時、BC級戦犯のことはほとんど報道されないとのことで、これを聞いた房江は、長 男と乳飲み子を抱えたまま、汽車と連絡船を乗り継いで、池袋まで必死の思いで出かけました。当時は交通の便が悪く、土佐から池袋まで2昼夜もかかったそう であります。
面会所において、豊松は、房江と子どもたちを見て、泣き、嗚咽します。
特に乳飲み子の直子を初めて見た豊松は、身体が小刻みに震えます。
夫婦でしばしの会話の後、少し気を取り戻した豊松は「同室の西沢(笑福亭鶴瓶)さんが、英語でアメリカの大統領宛に嘆願書を書いている。それが終わると、 俺のも書いてやると約束してくれているのだ。アメリカは何といっても民主主義の国だからな。それに200人以上の助命の嘆願書がくっつけば、鬼に金棒なん だがな」と房江に語ります。
房江は、この言葉を聞いて、土佐に帰ると同時に、息子を知人に預け、直子を背負って、助命嘆願の署名集めに奔走しました。しかしながら、戦犯と聞いただけ で、多くの人から怒鳴られて、頑に(カタクナニ)著名を断られました。それでも房江は雪深い山峡の村で200人目の著名を得ることに成功します。
結局212名の著名を得て、房江は直子を背負って、再び巣鴨プリズンを訪れ、この嘆願書を豊松に見せました。豊松は、これを小宮教誨師に渡すよう房江に頼みました。
矢野中将の処刑の後、しばらくは木曜日に処刑の呼び出しがなくなって、死刑囚たちは安堵の表情を浮かべておりました。
ところが、3月28日の木曜日、監視人が豊松の扉を開き「シミズ、チェンジ ブロツク!」と呼びかけました。同室の大西は、「房を変わるんですよ。減刑、減刑」と叫びます。けれどもこれは一瞬の糠(ヌカ)喜びでした。
巣鴨プリズン所長室において、所長は、命令書を豊松に示し、英語で語りました。通訳は次の言葉を日本語で豊松に告げました。
「横浜軍事法廷の判決と、マッカーサー元帥の認定により、第八軍憲兵隊司令官アーノルド・W・ヘンダーソン大佐と、巣鴨拘置所長ダニエル・C・ワイズ大佐 に対し、定められた刑の執行が命令された……。そこでその意味と内容を本人に伝達する。明3月29日、午前零時、当巣鴨拘置所において、絞首刑を執行す る。」豊松はこの言葉を聞くと、思わずヨロヨロと倒れかかり、辛うじて刑務官が彼の身体を支えました。
豊松に寄り添った小宮教誨師は「遺体は軍の規則で遺族には引き渡さないそうです。その上に埋葬場所も知らせないから、頭の髪の毛か、爪でも切り、家族の方に送るようになさったらどうでしょう。」と話しかけますが、豊松は茫然自失の状態で一言も喋ることはありませんでした。
遂に、その時が到来しました。
豊松は、手錠の上に革バンドを嵌められ、刑務官、MPに囲われて、敷石のレンガの通路を黙々と進み、刑場に向かいます。もはや逃げることもできず、豊松は 死の恐怖に晒されます。ここは広々として奈落の底、上段へは3ヶ所に十三段階があり、天井から太いロープが輪になって垂れております。処刑台は、五つ並ん でいて、背筋が凍るような巨大な処刑場になっております。
死刑台に歩み寄った豊松は、黒い布袋を頭から被せられました。次の瞬間、首に太いロープを巻かれた豊松が暗い床下に落下し、豊松は絶命しました。
私はこの場面を見た時、矢野中将の時と同様、戦慄が走ることを禁じ得ませんでした。
最後の場面において「深い海の底なら……戦争もない……兵隊もない……房江や健一、直子のことを心配することもない。どうしても生まれ変わらなければいけないのなら……私は貝になりたい!」の言葉が語られ、すべてのスタッフのタイトルが映し出されて映画は幕を閉じました。

主な登場人物
  役名    俳優・女優        役柄
清水 豊松   中居 正広   小さな理髪店の主人・二等兵
清水 房江   仲間 由紀恵  清水 豊松の妻
矢野 中将   石坂 浩二   中部軍 第三方面の軍司令官
西沢 卓次   笑福亭 鶴瓶  同じ房の仲間 英語に堪能
小宮教誨師   上川 隆也   巣鴨プリズンの教誨師
大西 三郎   草函々筺   )]召醗貳娶造蠅能莊困気譴贖br> 滝田 二等兵  荒川 良々   豊松と同じ二等兵 
立石 上等兵  六平 直政   豊松と滝田に対し米兵捕虜の殺害を命令する
竹内 吏員   武田 鉄矢   町役場の吏員 赤紙を配達する辛い役
尾上 中佐   伊武 雅刀   大隊長

(ご参考)
ドイツに勝利した連合国は、アメリカ軍主導の下に戦犯をA, B、C級の3つのカテゴリーに分けました。
A級戦犯は、平和に対する罪で起訴された者を指し、ドイツ・ニュールンベルグの国際軍事裁判所と日本・東京の極東国際軍事裁判所で審理されました。
東条英機、岸信介等が有名です。
それ以外のB級、C級を主とした犯罪は、各地の連合軍と犯罪が行われた各国において審理されました。
B級戦犯は、通例の戦争犯罪で起訴された者を指し、戦時国際法における交戦法規違反行為を意味します。
C級戦犯は、人道に対する罪で起訴された者を指します。
なお、A級、B級、C級という言葉は、罪の軽重を指しているわけではありません。
因みに、戦犯裁判の概要は次の通りです。
起訴人数 死刑判決  終身・有期刑  死亡   無罪  
A級 戦犯 28人    7人     18人   3人   0人
BC級戦犯  5,644人  934人 3,413人  279人 1,018人
上記を見ても分かる通り、BC級の戦犯が934人も死刑に処せられております。
当時はA級戦犯のみが報道されて、BC級戦犯の報道はほとんどなされませんでした。
上官の命令でやむを得ず、捕虜の殺害・虐待を実施したことについては、正確に連合軍に伝わらず、結果として、十分理解されることはなく、冤罪によって、BC級の戦犯が処刑されていきました。
アメリカ軍は、日本軍の実情把握不足と翻訳ミスを犯したが為に、かくも多くの方が犠牲になったわけであります。この軍事裁判は、勝者側の一方的な独断にて判決を下したのであります。
この事実を日本人は忘れることなく、後世に伝えるべきと私は考えます。

(注)正確を期すために、私は、書物「私は貝になりたい」(朝日文庫新刊 脚本 橋本忍)を参考にしました。
(了)

A型
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● 434 明けましておめでとうございます
05 Jan (Mon) 10:43 
From:伊藤規志子 南高 18期  

 篠崎さん、是非奥山さんとの研究発表をまたお願いします。そこからまた新しい何かが生まれてくるでしょう。行事が生産的であることは楽しい ことです。山口会長も、スエーデンの年金制度は国全体に連帯感が有ることを現地に行って実感したそうです。またお話してくれるかもしれません。自分の知ら ない分野についても、このように学び合えることは本当に幸せです。同窓会を過去のものにしないようにしましょう。今後も積極的にコミュニケーションし学び 合う連帯感のある同窓会であってほしいと願っています。きっと同窓会から素敵な人が沢山でてくるでしょう。(掲示版についても、今年も皆さんの投稿を待っ ています。よろしくお願いします。)

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● 433 Re:奥山泰男(13期)
03 Jan (Sat) 08:57 
From:篠崎正利 南高 13期  

伊藤規志子さん、良いことを知らせてくださいました。
僕は都合がつかず出席できなかったので、非常に参考になりました。
奥山泰男氏とは同じ会社にいながら異なる分野で働いています。
同じような考えを持っていることがわかったので、コラボレーションを企画したいと、年頭に当たり決心しました。
出席できなかったことのマイナスについては氏が資料を送ってくださることで補償できますが、本件については伊藤さんの新鮮な感覚でしか捉えられなかった氏の考えだと思います。
流石は副会長殿。

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● 432 奥山泰男(13期)
29 Dec (Mon) 11:54 
From:伊藤規志子 南高 18期  

 松山南校の文化フォーラムに今年はよく出席したと思う。12月最後の講演は奥山泰男さんだった。私は次の予定のために退出しなければなら ず、奥山さんのお話を最後まで聞けなかったので、内容についてはどうこう言うことはできない。研究者らしい奥山さんの物静かな発言の中で一つ記憶に残る言 葉があった。「最近では研究者ばかりでなくて、一般の人にも僕たちの研究を知ってもらいたいと思うようになっている。」 この言葉は、嬉しかった。私は、 研究者の研究内容を一般の人にも知ってもらうような機関が日本にもっとできないものだろうかと考えていたからだ。
 足を踏みならす振動でクリスマスツリーの電気をつけることが、年末の話題になった。12月足踏みで発生する振動発電を渋谷のハチ公前で見た。騒音の振動 を集めても発電出来ることを速水さん(?)が考えているそうだ。今年は不景気風が吹く年だったが、奥山さんの発言で、私の心にぽっと明かりが灯った。奥山 さんみたいな研究者が日本に沢山出てきてほしい。 

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● 431 27日のデイスコは7−8時までに入ると1000円でした
25 Dec (Thu) 11:38 
From:伊藤規志子 南高 18期  

  たびたびすみません。12月27日のデイスコは7−8時までに入ると、ドリンク代1000円だけで入れることが、今日問い合わせて分かりました。来たい方は8時までに来て下さい!

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● 430 デイスコ  最終案内の日は12月27日(土)です
24 Dec (Wed) 11:21 
From:伊藤規志子 南高 18期  

最終案内を後でチェックしてみたら、日程が間違っていました。訂正してお詫びいたします。12月27日(土)の方が正しいです。

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● 429 年末 デイスコ ダンスの最終ご案内
24 Dec (Wed) 11:14 
From:伊藤規志子 南高 18期  

  作道さんもどうぞ来て下さい。私も踊れない点では作道さんと同じです。服装は普通で入れます。 自由に踊れます。

    12月29日(土)  8:00−10:00

    CLUB EDGE TOKYO(これが正式の名称でした  クラブ エッジ 東京)
  
    港区六本木 3−1−30−1F

電話  03−6904−6111(CLUB EDGE TOKYO)

    アクセス  メトロ 南北線六本木1丁目   1番出口
          六本木テイーキューブ 出口よりすぐ

    費用 男性 4000円  女性 3000円

       連絡先  03−3998−7036 

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● 428 Re:年末デイスコ ダンスのお誘い 
24 Dec (Wed) 11:17 
From:作道文江 11期  

33期の長尾忠俊さんは大学時代に社交ダンス大会で優勝されたことのある、凄い方です。どうも参加されるようですね。わたしは踊れませんが見に行きたい気持でいっぱいです。きっと楽しい会になるでしょう。不景気をぶっ飛ばし、来年の幸運を招きいれてください。

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● 427 Re:バスケットボール全国選抜大会の日程
23 Dec (Tue) 09:24 
From:濱 田  人 南高 14期  

残念ながら一回戦70対69で惜敗しました。会場に足を運び、応援してくださいました皆様ありがとうございました。(東京支部事務局)

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● 426 Re:年末デイスコ ダンスのお誘い 
23 Dec (Tue) 04:30 
From:nagao  

>   12月27日(土)8:00ー10:00
>   場所 EDGE 問い合わせ先 港区六本木3−1−30−1F
> 03-6904-6111
> アクセス  メトロ南北線 六本木1丁目  1番出口
>
>    六本木テイーキューブ出口よりすぐ
>   男性 4000円
>    女性  3000円
>    
>    何年か前の忘年会で「いい店があったらサルサダンスに行きましょう」
>    と声をかけておきながら、店が狭かったり、うまい人ばっかり来るみせであった
>    り、適当なお店が見つかりませんでした。今回は、あまり考えずにお誘いします
>
>    当日7時からお店は開いていますが、私は8時以後行きます。
>    お暇でもう少しはじけたい人は、デイスコを一緒に踊りましょう
>
>   問い合わせ先  伊藤規志子 03−3998−7036  
>
>
>

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● 425 年末デイスコ ダンスのお誘い 
21 Dec (Sun) 02:57 
From:伊藤規志子 南高 18期  

  12月27日(土)8:00ー10:00
  場所 EDGE 問い合わせ先 港区六本木3−1−30−1F
03-6904-6111
アクセス  メトロ南北線 六本木1丁目  1番出口

   六本木テイーキューブ出口よりすぐ
  男性 4000円
   女性  3000円
   
   何年か前の忘年会で「いい店があったらサルサダンスに行きましょう」
   と声をかけておきながら、店が狭かったり、うまい人ばっかり来るみせであった
   り、適当なお店が見つかりませんでした。今回は、あまり考えずにお誘いします

   当日7時からお店は開いていますが、私は8時以後行きます。
   お暇でもう少しはじけたい人は、デイスコを一緒に踊りましょう

  問い合わせ先  伊藤規志子 03−3998−7036  


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● 424 バスケットボール全国選抜大会の日程
13 Dec (Sat) 10:38 
From:濱 田  人 南高 14期  

母校バスケットボール部が出場しますので、日程についてお知らせします。
1回戦は東京体育館Aコートにて12月23日16時より行われます。対戦相手は島根代表出雲北陵高校です。勝ち上がりますと、2回戦は東京体育館Cコートで25日14時30分より行われます。対戦相手は宮城代表明成高校です。応援よろしくお願いします。(東京支部事務局)

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● 423 松山の物産と観光展 新宿西口広場イベントコーナー
02 Dec (Tue) 12:21 
From:伊藤規志子 南高 18期  

 瀬戸内直送の松山の味が12月2日ー12月6日まで新宿口広場イベントコーナー(9:00−20:00)で売られています。12月3日は新宿で松山南校の忘年会があり、ついでに立ち寄ってみることができるので、お知らせしました。
  
  お問い合わせ先 (財)松山観光コンベンション協会
           電話   089−935−7511

  一六タルト  じゃこてん  ポエム  など  

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● 422 雲をつかむ技術
01 Dec (Mon) 05:08 
From:伊藤規志子 南高 18期  

 池田学(11期)さんによって、雲の分類が科学的に同定され始めた(18世紀末−19世紀初め)頃の詳しい説明があった。「ラマルクとルカ  ハワードどちらも雲の分類を発表しているが、ラマルクはナポレオンに認められなくて挫折しているが、ルカの方は科学雑誌の編集者に認められてルカの雲の 分類が広められ採用されることに成功している。ゲーテをもファンにしている。1783年浅間山の噴火 アイスランドの噴火など、ルカは気候の変動に直面し ながらも、既に12歳で大気現象を観察していた。巻雲(けんうんCirrus) 積雲(cumulus) 層雲(Stratus)等の雲の特性をあらわす 分類をしている...........。」
 雲の身分証明(idenntity)とは、初めて聞く言葉だった。どうも熱帯地方で発生した雲は、温帯や極地方でも同じ雲であるということらしい。高薮 縁(気象学者)は、大気の大循環や海の大循環が地球上の熱の差をかき混ぜているという。「熱帯地域は太陽から光がまっすぐ入ってきて、受け取る熱の方が多 く、逆に高緯度地域(北極 南極)は光が斜めに入ってくるから、放出する熱の方が多い。日本がある中緯度あたりで、南北の温度差をかき混ぜている。熱帯の 雲が熱を持ち上げているから、温度差をかきまぜることもできるし、熱を地球外に出すことも出来る。」と、高薮は言う。つまり、雲は地球表面の熱を吸収して 空に飛ばしている。太陽エネルギーは、海水に吸収して、蓄えられているから、海面からも地表からも熱を空に飛ばしているわけだ。今日偶然にもNHKスペ シャルで『雨の物語』番組があり、雲の話につい見入ってしまった。池田学さんや篠崎さんのお話を伺った後だったので、雲のわきあがるところを見て感動し た。篠崎さんは富士山に登った時に雲を見たのでしたね。NHKは大台原の雨を特集していた。黒潮で発生した雲が山の斜面が熱せられたことで起こる上昇気流 にのって斜面をそ駆け上がってくる様は壮麗であった。積乱雲が7000mまで舞い上がる。(5000m以上では雪になる)飛行機が積乱雲に突っ込んで行っ た。雪の結晶が飛行機に当たる音まで聞こえた。雪がやがて雨になると、雲は横に伸び上昇が弱くなっていった。海の大循環もすごい(ノルウエーが暖かいのは 海水にためられた太陽エネルギーが海流で北上するからだ)雲の大循環もすごいものだ。雲の大集団が地球を回っている。熱帯地方で発生した雲が温帯でも極地 方でも見られるという、雲をつかむ技術(Identity)についての考え方を、今日池田さんから学んだように思う。池田さんは専門家として地球温暖化に 警鐘を鳴らしていた一人である。雲の研究から、もう少し現代の研究成果を知りたくなった。





 

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● 420 昭和記念公園は最高でした!!!
24 Nov (Mon) 12:41 
From:作道文江 11期  

 伊藤(規志子)さんがますます好きになりました。彼女が副会長になってくださった時、何事にも積極的で、ジャンヌ・ダルクのような人と思い ました。この同窓会の救世主のように思えたのです。今回のバーベキューの買出し、下準備はすべて彼女がお世話くださったのですが、慈母のように楽しそうに 身体を動かし、みんなに心配りされます。
 森岡さん、柳沢さん、わたしの三人で作った豚汁は、豚肉たっぷり、ジャガイモ、サトイモ、ごぼう、こんにゃく、あげ、エリンギ、シメジ、にんじん?、大 根?とまことに実だくさんです。隣のコンロでは、いか、えび、サツマイモ、ナス、しいたけ、ぎんなん、お肉を焼いています。又その隣ではお好み焼き を、、、もちろん三角おにぎりもテーブルにあります。 飲み物はボジュレヌーボー、電気ブラン、月下美人酒、ビールと多彩。リンゴに柿のデザートも。
 食べきれないので隣席の若者たちに食べてもらいました。「美味しい美味しい」と連発して、「ごっつあんです。」と喜ばれました。
 木村さんの用意していた敷物に座って、「豚のしっぽ」というトランプゲームをしました。望遠鏡を持参されていた信田さん、カメラマンの岡田さん、植物に詳しい濱田さ
ん、サンシュユの赤い実を食したこと忘れません。玉ねぎを持ってきて出し忘れた松原さん、いかを調理していた奥田さん、DVDを作ってくださるという吉岡さん。皆さんなんてあったかい人たちでしょう。身体はともかく少年少女に戻っていましたね。
 銀杏並木の素晴らしいこと。テレビで当日放映された家人が言っていました。ぶっつけで書きます。乱文お許し下さい。

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● 419 11月22日(土曜日)昭和公園最終案内
17 Nov (Mon) 10:29 
From:伊藤規志子 南高 18期  

  11月22日(土曜日)は天気のようですね。またもし多少雨が降ってもバーベキューガーデンではテントが借りられるため、少し位の雨でも 実施できます。ですから、22日は実施致します。西立川駅の改札に、11時にお集まり下さい。新たに買う必要はありませんが、運動靴が歩きやすいです。あ たたかい服装でおいでください。14期の奥田さんが加わりました。私は遠足前の楽しい気分になってきました。興奮しやすい性格なので、行く前の日までに楽 しみが興じて前日眠れなくて、当日全く元気がなくなってくることが多いので、気をつけなければなりません。まだ20日まで申し込み出来ますから、迷ってい る方は思い切ってどうぞ参加して下さい。では、当日お会いしましょう。

   濱田人 伊藤規志子 (当日の連絡先 伊藤の携帯09017710901)

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● 418 『ラブリープリンセス』!!
17 Nov (Mon) 11:45 
From:作道文江 11期  

県名を英語で訳せば「ラブリープリンセス」。バンビアイランド(鹿児島)と並び、「萌える」県名の双璧だ。上古からの歴史重なる道後温泉(松 山市)では、漱石も愛用した浴場に今もかけ流しの湯があふれる。松山城、宇和島城と江戸時代からの天守閣が二つ現存する唯一の県で、往古通りに木造で再建 された大洲城も見応え十分だ。
新聞に掲載されていました。「ラブリープリンセス」本当に愛媛っていい名前ですね。

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● 417 Re:11月29日の文化フォーラムへのお誘い
15 Nov (Sat) 02:39 
From:作道文江 11期  

> 日比谷高校同窓会館である「星陵會館」です。

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● 416 11月29日の文化フォーラムへのお誘い
15 Nov (Sat) 12:53 
From:作道文江 11期  

日比谷同窓会館である「星陵會館」で文化フォーラムがあります。
講師は我等11期生であり、この同窓会の副会長を務めて下さっております池田学さんです。
ご専門は素粒子物理学でいらっしゃいますが、気象庁の気象大学校の助教授として1979年から7年間、1991年から教頭として7年間お勤めになりました。
テーマは「雲をつかむ話」です。
ヘルマンヘッセ、東山魁夷、星座、哲学、彼の知的好奇心はいまもって野放図に拡大を続け、驚嘆すべきものがあります。
どの分野でも限りなく大きな知識をお持ちです。
きっと面白いこと請け合いです。
ご都合のつく方是非ご出席下さい。
12/29−12時から13時まで昼食会
12/29−13時から15時まで講演会
★ ★ ★ ★ ★
最近パワー・ウォーク研究センターを開かれたようです。
その案内には次のように書かれてあります。

10才若返ってみませんか?
ーウオーキングで心も体もエクササイズー
 ウオーキングは健康の基本です。メタボ対策などの健康や美容に効果があるだけでなく、うつ病や精神面での効果も大きいことが、最近の研究で明らかになってきました。身近で簡単にできるウオーキングを、ぜひこの機会にエクササイズしてみませんか?

私は皇居周辺5kmを5年間、雨の日も風の日も楽しく歩き続けました。そのときに発明したのが、パワーウォークです。それ以来、定年まで歩き続けてきました。観光バスの小学生たちが体を乗り出して、何度も私を応援してくれるほど、力強い歩きだったのでしょう。
グラデイーヴア(輝かしい歩き方)の人になりたいですね!

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● 415 Re:なぜかgoogleで名前がでた。
13 Nov (Thu) 11:23 
From:作道文江 11期  

 先生お返事有難うございます。大久保さんに先生の住所教えていただくことにしました。66歳の私も最近記憶が混乱し、朦朧としていることも増えました。本当に凄いめぐり合いができ、嬉しく感動しています。
 須藤先生は教職を離れて、しばらくこちらの方でお住まいでしたので、一年に一回ぐらいの割合でお会いしていました。雑司が谷霊園で、ご幼少のころ遊ばれたとか、二二六事件の時、神楽坂で官邸にいく若い将校達と出会ったとか、印象的なお話お聞きしました。
 私たちの修学旅行は京都でしたが、そのとき旅館に舞妓さんが来てくれました。先生の企画だったように記憶しています。先生を須藤先生はたよりにしていらっしゃったように感じました。遠足のとき写真をお願いしたりして。
 先生がお家の近くを散歩されていらっしゃる時、近くの喫茶店でほんのちょっとお話できればと存じます。
 中学校の頃は除夜の鐘を一度も聞いたことが無く、早寝早起きでした。三年生になると居眠りをする生徒も多かったのですが、その頃のわたしは居眠りをする ことが不思議に感じていました。ですから授業中は、一番まじめに、先生の発する一言も聞き逃さなかったと自負しているのですが、、後はお手紙致します。

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● 414 Re:なぜかgoogleで名前がでた。
11 Nov (Tue) 10:53 
From:大塚卓司  

> 友人が「伊予和気界隈はええとこぞなもし」を上梓したので、その友人の名前を検索していたところ、私の名前がでてきて驚いたのです。
 半世紀も前のことなので、記憶は朦朧としているのですが、思わず書き込みをしてしまいました。本来、南高のページなのにすみません。
 数年前、一緒に山登りした大久保直行君、新山(溝田)敬子さん等と会いました。
今はすっかり歳をとり、その山登りもおぼつかなくなっています。もうすぐ退職して19回目の師走を迎えます。
 「故郷とか昔の先生とかは、遠くにありて思うもの」のようです。でも考えると、すごい時代に、すごい「めぐり会い」ができてよかったです。
 ご元気でご活躍ください。支部バベーキューの会、ご盛会を祈ります。

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● 413 Re:なぜかgoogleで名前がでた。
11 Nov (Tue) 11:35 
From:作道文江 11期  

先生、投稿してくださったんですね。私もびっくりしました。先日、松山で松山南11期生同期会があり、雄新中学校出身者も松友さん(生徒会会長)、戸梶さ ん、森本さん、溝田さん、黒田さん、今井さん、玉井さん、一色さん、岩本さん、越智さん、須上さん、村口さんと私大野13名が出席しました。
お元気の由、一人娘のお嬢様がお医者さんになられたとかお話お聞きしています。黒田さんのお近くにお住まいとか、、一度お友達を誘って、お目にかかりたいと切望しております。
革のスリッパでカツカツと廊下を早足で歩かれ、お父様がなくなれた時はサングラスをかけて、授業をされていました。出席名簿にチェックされるとき、一番前 の席の生徒の鉛筆を使われるので、隣の級友と競って、鉛筆を削り、先生が取れやすいように机の上に用意したものです。三年の時、隣の須藤恒子先生のクラス におりました。

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● 412 Re:なぜかgoogleで名前がでた。
11 Nov (Tue) 11:34 
From:作道文江 11期  

先生、投稿してくださったんですね。私もびっくりしました。先日、松山で松山南11期生同期会があり、雄新中学校出身者も松友さん(生徒会会長)、戸梶さ ん、森本さん、溝田さん、黒田さん、今井さん、玉井さん、一色さん、岩本さん、越智さん、須上さん、村口さんと私大野13名が出席しました。
お元気の由、一人娘のお嬢様がお医者さんになられたとかお話お聞きしています。黒田さんのお近くにお住まいとか、、一度お友達を誘って、お目にかかりたいと切望しております。
革のスリッパでカツカツと廊下を早足で歩かれ、お父様がなくなれた時はサングラスをかけて、授業をされていました。出席名簿にチェックされるとき、一番前 の席の生徒の鉛筆を使われるので、隣の級友と競って、鉛筆を削り、先生が取れやすいように机の上に用意したものです。三年の時、隣の須藤恒子先生のクラス におりました。

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● 411 なぜかgoogleで名前がでた。
10 Nov (Mon) 10:26 
From:大塚卓司  

びっくりしたぞなもし!

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● 410  昭和記念公園 バーベキュー中間報告
08 Nov (Sat) 10:31 
From:伊藤規志子 南高 18期  

バーベキュー 予定 豚汁、 炭火焼と鉄板焼き
 
 食材 用意しているもの  シーフード キャベツ  サツマイモ フランクフルト
              ピーマン なす  おにぎり
 
 当地で買えるもの     ペット飲料 150円
              缶ビール  300円
              缶チューハイ 200円
 レンタルで申し込んでいるもの
             
              ツーバーナーコンロ グリドル 炭火用BBQグリル
              フライ返しセット  包丁まな板セット ザル ボウル            
              セット  お玉  寸銅鍋 折りたたみテーブル
               折りたたみイス

   紅葉散策 スポーツエリアでのゲームもできたらしたいと思っています。ボート
   にも乗りましょう。
   もっと楽しめるいいアイデアがあったら教えて下さい。

   連絡先 濱田人  伊藤規志子 

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● 409 昭和記念公園参加者 中間報告
08 Nov (Sat) 10:11 
From:伊藤規志子 南高 18期  

11月22日(土)
  昭和記念公園に南高同窓生と行くのも2週間後になりました。参加者は現在の所9名ですが、さらに数名は増えると予想されます。11月20日(金)まで申し込みはオッケーです。さらに同期の人を誘って下さい!

  参加者 木村和(9期) 岡田次昭 作道文江(11期)  信田正裕(12期)
      松浦俊子  濱田 人(14期)  森岡修一(16期) 
      吉岡賢一  伊藤規志子(18期)

     申込先  濱田 人  伊藤規志子

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● 408 伊賀上さんの文化フォーラムから
27 Oct (Mon) 03:33 
From:伊藤規志子 南高 18期  

 伊賀上さんは戦跡を訪ねることで、戦死者はもちろん生き残った人を含めた『語れない体験者』に代わって戦争の悲惨さを次世代に伝えたいとの 意を強くされたことがわかった。ニューギニアでは、生き残った兵士には食べるものがなく、悲惨だった。極限状態の中で、人間は生き残るために動物の本性が むき出しにされる。もうこれ以上言えねえというような人肉に関わるショッキングな関係になったようだ。ガダルカナル島でマラリアでの餓死を免れた兵士は、 さらに過酷な戦場に送られたそうである。日本が負けたことが分かると困るからであったという。
 豊かな生活を夢見てブラジルやアメリカに移民していった人も、戦争が始まると敵国人として扱われた。日本につくか、アメリカにつくか踏絵を踏まされた。 カリフォルニア州のツーリレーク収容所に入れられていた竹下ファミリーのことを最近知った。収容所に入るに及んで、今まで築いてきた財産が没収された母親 は、今もって戦争について何も語らないそうである。カリフォルニアのどこの収容所であるかは忘れたが、収容所に入れられた日本人は河川の灌漑事業(強制労 働)にもかりだされていたそうだ。 戦争によって財産や友や家族が、いやぎりぎりの人間的なものまでが失われてしまう。伊賀上さんのお話で、私の知らない ことを教えて頂いた。

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● 407 銀杏並木と紅葉を見に行こう
21 Oct (Tue) 09:49 
From:伊藤規志子 南高 18期  

2008年 11月 22日(土)11時ー3時
国営昭和記念公園
入園料 大人400円 子供(小 中学生)80円 小学生未満 無料

全長300メートルの銀杏並木と紅葉を見に行きます。黄色いトンネルと落ち葉はロマンチックです。緑で囲まれた所でのバーベキュウーガーデンでお昼を食べ ます。器具と食材はこちらで用意します。(コンロ、鉄板、まな板、包丁、テーブル、シーフード、キャベツ、サツマイモ、フランクフルト、ピーマン、なす、 おにぎり)何か他に食べたいものがあれば、持ってきて下さい。あたたかい服装でおいでください。食事の後は散策やボートやゲーム(?)をします。

費用1000円−2000円
集合場所 JR 中央線 青梅行き 西立川駅
     新宿からJR中央線の11番か12番の青梅行きの快速か特快速に乗ると、
     40−50分で西立川駅に着きます。いろんな行き方が有るので、調べて
     みてください。
集合時間 11時  
申込先  濱田人  伊藤規志子  (バーベキューの都合も有るので、申し込んで下        
     さい)

  わいわいと多い方が楽しいので、沢山の参加を待っています。

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● 406 合唱団パーテイー 若者と合同で.......
19 Oct (Sun) 04:03 
From:伊藤規志子 南高 18期  

10月17日、やまなみ合唱団の慰労会(反省会)を新橋のおしゃれなピアノバーで開催しました。今回はピアノ好きの30代の若者との合同パーテイーとなり ました。若者グループが9人、やまなみ合唱団が8人、私の友達が一人来てくれました。私たち合唱団が早速『Tonight』を歌った所「アンコール」と言 われ、その他に持ち歌がないのに慌ててしまいました。そこでもう一度『Tonight』を歌いました。松山南校の懇親会でもアンコールがでるようになると いいなと思いました。若者がピアノやヴァイオリンで「千の風になって」「見上げてごらん」などを弾いてくれて、それに合わせて全員で歌いました。初めての 試みでしたが、若者との合同パーテイーもいいものですね。

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● 405 戸田さん 投稿ありがとう
10 Oct (Fri) 09:08 
From:伊藤規志子 南高 18期  

 ホームページについてのコメントをありがとうございました。ホームページが戸田さんにとっては「生真面目」で「よそよそしい」のでしたね。 戸田さんの文章をじっくり読んでみて、その気持ちがよくわかりました。南高の文化フォーラムでは、参加してから質問したり討論したりできるから、自分が受 け入れられていると感じられるのですね。その結果お互いに気安い関係でいられるのですね。戸田さんの言う通りだと思います。文化フォーラムは、お互いの顔 がよく見えるので、講演者を挟んでぐるっと丸く座っているだけでも安心感があります。ホームページはそういう意味では、ひとの表情は見れません。でも表情 が見えない分だけ、想像力でその人の考え方、感情がよく見られます。例えば、岡田さんの映画の話の中に、私は岡田さんの豊かな人情を感じました。作道さん のお話の中にも人との関わりを大切にする姉御肌のお人柄に触れることができました。まだ、投稿者は少ないですが、掲示版を見ている人がいるので(?)、そ のうち参加してもらえるだろうとのんびり構えています。
 私はホームページの広報係なので、時々投稿していますが、同窓会の掲示版なので、皆さんが参加して、掲示版をもっと魅力あるものに変えていってくださ い。ホームページをもっと利用してもらうにはどうしたら良いかを近いうちに運営委員が集まって、知恵を絞る予定です。ご期待下さい。 
 文化フォーラムでは、同窓生の専門や得意分野について、お話を伺っています。「少しでも皆さんの役に立つことを話したい」と気持ちにあふれています。し かし、土曜日働いている人はこのフォーラムには来れないでしょう。当日来れない人でもテープでお話を聞けるようになるといいですね。

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● 404 伊藤さんの文化フォーラム紹介に続いて
07 Oct (Tue) 09:26 
From:戸田 孝 3期  

 熱心に南高同窓会東京支部のHPを盛り上げてくださる伊藤さんに感謝します。
 実は小生、このHPの掲示板は『生真面目』で『よそよそしい』のが少し気に入りません。で、それを理由に投稿を遠慮、いや逃げていました。

 文化フォーラムのことが、伊藤さんによって記述されていたので、敢えて投稿する気になりました。実は『文化フォーラム』という名前も、小生には『よそよそしく』感じ、最初は敬遠していました。

 しかし、ヒョンなことから参加して、逃げられなくなってしまいました。何度か参加して感じました。参加者は年代(期の壁)を越え、お話いただける人も、 お話の内容も、参加し質問したり討論したりする内容も、多岐にわたると同時に、和気あいあいで、お互いに気安く受け入れられると感じています。

 今のところ、引退またはそれに近い世代が中心ですが、できることなら現役世代にも意義あるものになれば、と期待します。

 このフォーラムの場からも、同窓会の存在意義を高めていければよいのかな〜〜、と思って投稿しました。

h219-110-61-081.catv02.itscom.jp

● 403 懇親会報告 プラス アルファ
06 Oct (Mon) 09:22 
From:伊藤規志子 南高 18期  

 大事な報告を忘れていました。鶴岡さん神野さん達13期を中心にして、月1回行われていた文化フォーラム(同窓生の講演会)が、同窓会の行 事として正式に認められたことが、山口会長から説明されました。私も時々文化フォーラムに参加していますが、月1回の回数の多さもさることながら、一人一 人違った得意分野での経験から語られる高度な知識や知恵や感動を伝えるもので、内容は濃いものであります。どうぞ、これからも文化フォーラムにご参加下さ い。これを追加報告致しました。
 
 

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● 402 懇親会報告へのお礼
06 Oct (Mon) 12:35 
From:後藤善宏 南高 22期  

伊藤規志子さま
4回にわたる、本年度懇親会の内容のご報告本当に有難うございます。お陰さまで当日の会場の雰囲気が伝わってきて嬉しく拝読いたしました。

私は本来なら司会進行役を務めなければならない立場だったのですが、一週間前に発生した家族の訃報対応で手も時間もとられてしまい、責務を果たすことができなかったことを申し訳なく存じます。あわせて、自分自身楽しみにしていただけに残念でした。

このご報告を読まれた方々は、当日参加された方はそのときの喜び、興奮がよみがえり、参加できなかった方も興味を覚えられたのではないでしょうか。来年の盛会につながっていくものと存じます。
東京支部の活動がますます深みを増して活発になっていきますよう私も微力ながら努めてまいりたいと存じます。
在校生の成長と母校の発展を祈念申し上げます。

第22期 後藤善宏

210-194-106-85.rev.home.ne.jp

● 401 懇親会報告(4)南高バスケット全国大会に応援を頼む
06 Oct (Mon) 12:09 
From:伊藤規志子 南高 18期  

 岡田紀夫(おかだのりお)松山南同窓会本部長から、朗報がありました。ひとつは、『坂の上の雲』が来年から3年間にわたり放映されることで す。次にバスケットボール全国大会(東京で開催される)に南高が出場するので、われわれ同窓生も応援をしてやりたいということでした。12月23日から7 日間東京体育館で行われます。
懇親会でも、応援を買って出る声を聞きました。また12月になって詳しいことが分かりましたら、お知らせします。
 山口登会長からは「同窓会は同期会の同年齢の横のつながりだけでなく、様々な年齢の人と触れ合う縦のつながりを大事にしたいとのお話がありました。
 西岡義晃さん(13期)のピンと張り渡ったエール、大先輩大野迪子さんの乾杯のご発声、郷田さん濱田さんの軽快な司会進行で、和やかに懇談が行われまし た。今年の出し物は、やまなみ合唱団から高橋啓子さん(16期)のオカリナと合唱団の「Tonight」の歌、寺田和世さん(5期) 中野あけみさん(5 期) 横田早苗さん(11期)三人の華やかな衣装に身を包んだ優美な動きのフラダンス、和泉千寿(16期)指導の阿波踊り等が披露され、懇親会を盛り上げ ました。岡田紀夫本部長のお声を聞いたのは初めてではないでしょうか。(高校3年生)
 やまなみ合唱団の歌を静かに聞いてくれたことに、メンバー一同感謝しています。阿波踊りも、和泉さんのリードで参加者が多く大変楽しいものになりました。
 各テーブル内でじゃんけんで勝った人には、一等賞に真珠、二等賞に城戸さんの「あの戦争から遠く離れてー私につながる歴史をたどる旅」の本か買い物券2000円が当たりました。この本は、作道さんと濱田さんからの寄付です。
 さて4回シリーズで懇親会には出席できなかった人のために、ほんの一部ですが、様子をお知らせしました報告はこれをもって終了とさせて頂きます。南高は 同期会(同じ年の会)が盛んです。ゴルフ 合唱の次に俳句のクラブも今作られようとしています。来年はどんな会に発展しているでしょうか。皆さん来年も元 気でお会いしましょう! 

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